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第34回「『デフレ』に動じない中小企業経営者に学べ」(その1)
投稿者 日時 2003 年 1 月 31 日 20:24:51:

(回答先: 財務省・日銀、「覆面」円売り介入実施 投稿者 日時 2003 年 1 月 31 日 20:19:52)


☆気持ちはわかるが、投資環境を何とかしないと日本で努力するより外国で努力しよう!って傾向は続くだろうね

しかし覆面円売りとは苦肉の策だなあ。すぐばれてるし。

近頃マスコミでは、「デフレ」に関する議論がかしましい。エコノミストと呼ばれる方々は、口を開けば、「デフレは諸悪の根源だ」とか「デフレが克服されない限り、問題は解決されない」などと言いたい放題。しかし冷静に見ると、彼らの主張は、個々の主体における努力や工夫の有無を完全に無視しており、その心の奥底には、「個々に努力したところでタカが知れている」「誰かが何とかしてくれるだろう」「誰かが何とかしてくれるはずだ」という他力本願的な甘えが充満している。企業を経営した経験がないから仕方ないのかもしれないが、「白馬の王子さまがどこからともなく現われて、私を迎えに来てくれるに違いない」という少女のような憧れに似たものを感じてしまう。

 自己責任原則に貫かれたスカッとした主張

 私は、マクロ経済政策の意義や効果を否定する論者ではないが、ミクロ――個々の経済主体――における努力や工夫の重要性を無視して、何かあるとすぐにマクロ経済政策の効果に頼りかかる昨今の風潮には、正直言って心底辟易している。経済学者ケインズが例示した「合成の誤謬」という一言を極端に解釈し、すべての現象に当て嵌めて、「個々の主体が努力しても、マクロ環境がこうである以上は徒労に終わる」という思い込みを蔓延させているエコノミストたちの罪は本当に重い。

 だからわが国では、少なからぬ経営者が、「デフレだから売上げが伸びない」などと平気でのたまう。「デフレでもウチだけは大丈夫だ」と胸を張るのが「経営者」というものであるはずなのに、そういう気概と気迫が感じられない。是非、日産自動車を再建したカルロス・ゴーン氏に聞いてみて欲しい。彼が著した「ルネッサンス」(ダイヤモンド社)を読めば、マクロ経済の環境を言い訳にするような人は経営者に向いていないということがたちどころに理解できるだろう。

 世の中では、「有効需要さえ増やせば何とかなる」という論者も多いのだが、これだけ裕福な暮らしをしている国民の消費を活性化するものは、財政出動でも金融緩和でもない。個々の企業の商品開発であり、販売努力である。それが現実だ。暮らしの水準がまだ低いために、同じような品揃えのデパートが林立しながらも、商品が毎日飛ぶように売れている中国であればいざしらず、「買いたいものがあまりない」と思っている日本の消費者を突き動かすものは、遊び心であり、驚きであり、癒しや非日常性だったりする。これらは、マクロ経済政策でどうにかなるものではない。

 そういうこともあって、私は、日本経済の運営目標をGDPで捉えることはもはや適切ではないと考えている。そういう合計量のような指標ではなくて、人々の生活のクオリティという側面に目を向けるべきではないかと強く思っている。もっと快適な暮らし、もっと自由な選択、もっとフェアな社会という観点から、「ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ライフ」を模索すべきなのだというのが私の基本スタンスだ。かつて、「ブリティッシュ・ウェイ・オブ・ライフ」や「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が各国の羨望を集めたように、日本人が「日本人で良かった」と思えるような、そして海外の人々が「日本人にように生活してみたい」「日本で住みたい」と感じるような生活のクオリティを追求すべき時期が来ているのではないか。

 ところが、「有効需要さえ増やせばよいのだ」という短絡的な議論にのせられて、わが国は125兆円を超える財政支出を垂れ流し、結果的に財政赤字を致命的なほどに悪化させた。さらに、「量的緩和さえすればよいのだ」という根拠のない主張にのせられて、日本銀行のバランスシートは125兆円を超える規模にまで膨張し、結果的に金利機能を麻痺させてしまった。しかし、奇跡的なモルヒネ治療法を求める人々はそれでも飽き足らず、今度はインフレターゲットなる魔術に日本経済の命運を託そうとしている。過去の教訓を学ぼうとしないこのスタンスは何とかならないものだろうか。

 そういう暗澹とした気持ちに沈んでいたとき、一通のEメールが届いた。ある中小企業の経営者からだ。製造業の下請企業を経営しているこの方は、自己責任原則に貫かれたスカッとした主張を展開しているので、その内容をご紹介したい。私が特に唸らされたのは、冒頭の一節だ。

 「中小企業にとってデフレは日常茶飯事だった」

    「日本中で大問題とされ経済上の悪の象徴として『デフレ』がとり立たされている今日この頃ですが、中小企業経営者として一言申し上げたいことがあります。我々中小企業にとって、特に製造業における下請け業者にとって『デフレ』、つまり商品やサービス価格の低下は、ずっと日常茶判事の出来事でした」

 そのとおり。下請業者たちにとって、商品やサービス価格の下落は、日常茶飯事の出来事である。特に円高不況以来、彼らは厳しい「デフレ」の中にいた。強烈な「デフレ」とともに生きてきた。大企業からの度重なるコストカット要請は、ある意味で「人工的に作られたデフレ」である。しかし、その中を彼らはしたたかに逞しく生きてきた。

    「問題だ、問題だといっている大手企業出身の経済学者や、いまだにそこに居る人たちはよく思い出してもらいたい。毎年毎年コストダウンの名目で5%なり3%なり、それこそ時には10%もの値引きを下請業者に要求していませんでしたか。上の命令だとか、予算が削減されたとか、いろいろ理由がありましたが、とにかくいつもいつもコストダウンの要求をし、且つ飲ませてきたはずです。一方要求された下請業者の方は、素直にそれにこたえていたはずです。みんな何とかこなしているのに、自分の会社だけができないなんてことになると、切られてしまうかもしれませんから。こんな状況がずうっと続いていたんです。そういう意味で、中小企業にとっての経営環境は、今までと何にも変わらないのです」

「必死の努力をするのが当たり前」

 確かにその通りと言うしかない。「デフレ」が常態化している中小企業においては、努力不足や工夫不足は致命傷になりかねない。なんとかサバイバルするために、コストダウンという名の「デフレ」に必死で対応しようとしてきた。そうだからこそ、「デフレ」ごときに悲鳴を上げている大企業に対する、彼の分析と指摘は厳しい。

    「経営環境が変わったのは、大企業といわれるステージに居る企業とお国です。グローバライゼーションという流れの中で、各企業が世界の市場から資材を調達するようになれば、商品の差がなくなり、ブランド価値を高めないと商品は売れなくなります。そんなの当たり前のことではありませんか。本来コストなり、納期なり、品質なりの価値を高めるためには、必死の努力をするのが当たり前で、その努力の結果、企業としての価値、もしくは利益が獲得できる。それも当たり前ではありませんか。努力して安いものを作るのではなく、安い商品を探し、顧客のそばに行って一生懸命売る工夫をせずに『マーケティング』という技術論に安住して、大きな市場で一発当てようという、山師のような人ばかりになってしまった大企業の製品を消費者が買うわけがありません。だから、売るためには、さらに安くするしかないわけです。これがデフレです」

 ズバリと核心を突くような文章だ。努力と工夫のない企業であれば、大企業であろうと厳しい経営環境に追い込まれる。当たり前のことである。その当たり前のことに対して、何を怯えているのだ――あなたたちは、私たち下請業者に「デフレ」を押し付けてきたではないか。なぜ、自分が「デフレ」に直面したからといって、その程度でうろたえるのだ。それなら、われわれ下請業者に対しても、コストダウンという名の「デフレ」を押し付けるな――彼の主張は胸に響いてくる。
    「国についても同じです。努力と工夫の中から苦労して捻出した税金という利益を、ゆとりを持った素敵な生活を国民に与えるためと証して、要らない公務員、要らない公共施設、要らない政治家、要らない銀行を増やしてきました」

 「昔、顧客とこういう話をしたことがあります。『一番いい協力会社は、技術力があって、安くて、いつも暇で仕事が頼みやすい会社です』『そんな会社はすぐつぶれてしまいますね』という笑い話だったのですが、日本の公共サービスはほとんどそういう状況になっています。忙しいから人を増やす。景気が悪いから公共事業を増やす。お金がないから貸してもらう。そういうことが何ら問題なく未来永劫行うことができるのなら、こんなにいい国はありません。でもそうは行かないのは、やっぱり当たり前じゃないですか」

 物事には自ずと限界がある――当たり前のことだ。世の中の酸いも甘いも味わい尽くした中小企業経営者からこう言われると、なかなか返す言葉がない。経験に裏打ちされた正論だからだ。

 「我々は自分たちで生き抜いて見せます」

 彼は、貸し渋りや貸しはがしに関しても、自己責任原則を強調してこう言い切る。

    「当社も昨年貸しはがしに合い大変苦労いたしました。今年も大変でしょうが、それも当たり前のことです。市場で生き残れる約束なんてもともと存在していないのですから。こんな時代、個別の企業が生きていけるかどうかは本来誰にもわかりはしません。だから一生懸命説明し、且つ努力し、少しずつでも結果を出し、何とか次の融資を交渉しているのです。銀行側だってそれを見て、聞いて、だめなところを指摘しながら担当者は必死に上司を説得し、何とか融資を実行する。これも当たり前じゃないですか」

 「バブルの頃から比べると、中小企業においても、受けられる融資の種類と規模は随分充実しているはずです(見事なセーフティネットです)。確かに、ボケナス銀行マンはたくさん居ます(そのせいでつぶれる会社もあるはずです。当社も一度そんな目にあいそうになりました)。ボケナス頭取も居ます(○○○銀行の頭取は、わが社で主任もできません)。ですが、中小企業、零細企業にとってはずっと昔からそんな状態だったのです(いきなり銀行マンがボケナスになったわけではない)」

 実際に貸しはがしに遭遇し、苦労してきた中小企業の経営者自身からズバリこう言われると、説得力が違う。確かに、銀行の対応の拙さや貸出能力の問題は今に始まったことではあるまい。そういう割り切りを持った上で、銀行との交渉に立ち向かえば、自ずと違う解決策もみえてくるかもしれない。

 ところで、自己責任原則を信奉する彼が理想とするマクロ政策は一体全体どういうものなのだろうか。彼はメールの最後に熱心に説いている。

    「そんな我々としてお願いがあります。政治家や官僚に余計な事をさせないでください。政治は10年いろいろ考え、たくさんのお金を使って数々の政策を打ちました。評論家たちもたくさんの意見を述べました。成果は何もなく、未来の借金ばかりが増え、今どんどん税金が増えていこうとしています」

 「立ち行かない銀行はつぶれてけっこうです。仕方がありません。我々にとってはそれほどの違いはありません。当たり前のことを当たり前に行うために最低限のコストをかけるだけにして下さい」

 「我々は自分たちで生き抜いて見せます」

 「政治家や官僚に余計な事をさせないでください」という叫びが心に響く。「成果は何もなく、未来の借金ばかりが増え、今どんどん税金が増えていこうとしています」という訴えにも、思わず頷いてしまう。要するに、「マクロ経済政策など何もしないでくれ」と彼は叫んでいるのだ。「当たり前のことを当たり前に行うために最低限のコスト」だけにしてくれと主張している。

 正直言って、私は、彼の主張に親近感を覚える。

 ただし同時に――そして、皮肉なことなのだが――、彼が最後に示した「我々は自分たちで生き抜いて見せます」という凛々しい覚悟が個々の経済主体に宿ったとき、これまで効果が希薄だったマクロ経済政策が初めて有効性を発揮しはじめるのではないか、というパラドキシカルな予感も感じている。

 いずれにしても、2003年は日本経済の正念場だ。「我々は自分たちで生き抜いて見せます」という覚悟のない企業を保護するのではなく、「我々は自分たちで生き抜いて見せます」と心に誓う企業をサポートする政策こそが重要なのだ。そういう企業の努力や工夫を阻んでいる問題企業や問題規制や問題慣行を是正し打破することこそが政府に求められていることなのである。

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