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From : ビル・トッテン
Subject : 米国型経営の実態
Number : OW557
Date : 2003年1月21日
経営者が利益追求を第一目標に掲げるようになると、企業は大切なことを忘れがちになる。それは、企業経営は、社会全体をお得意さまとして、そのお得意さまにサービスするために存在する、ということである。その結果、日本企業は、利益追求のためにはもっとも優れていると考える米国型経営へ移行していく。しかしそれが社会全体にとってよいものではないことは、時間がたてばたつほど、誰の目にもあきらかになっていく。
(ビル・トッテン)
米国型経営の実態
経済紙が国内主要企業百社を対象に行った調査で、商法改正で可能になった米国型企業統治の経営形態への移行に前向きな姿勢を示した企業は、わずか2社であったという。
記事によれば、その採用に慎重なのは、米国型の「委員会等設置会社」がトップの選任にも大きな影響力を持ち、現職の社長が後継者を決めるというこれまでのやり方が抜本的に変わることへの抵抗や、昨年の米企業の不正会計事件で米国型統治への不信感があることなどだという。
当然の抵抗と不信感
決算操作や不正な簿外取引、ずさんな外部監査、役員のインサイダー取引による自社株の売り逃げ、従業員の個人年金(401k)の大幅な減少など、米企業で起きている問題を考えれば当然であろう。しかし「経営の透明性を求める株主の声は強く日本企業は改善を求められている、構造改革が必要だ」というメディアの論調は変わらない。
日本型の企業統治が完ぺきだとはもちろん思わないが、これまでのやり方の何が問題で、どこを正すべきかを厳密に検討することなく移行を急ぐ必要があるほど、米国型経営が透明ですばらしいということは絶対にない。従業員や日本の社会全体にとってもよい結果をもたらすことはないだろう。しかし経営者にとっては都合のよいものかもしれない。
巨額不正で破たんしたワールドコムのエバース前最高経営責任者は、今でもミシシッピーの広大な牧場で優雅に暮らす。エンロンのレイ会長は破たんによってアスペンなどにある別荘を手放したものの、今でも豪邸に住みチャリティーディナーを主催する生活に変わりはない。
乱脈経営で問題になったタイコ・インターナショナルのCEOだったコズロウスキ氏は、一千万ドルの保釈金を払いコロラドのスキー場で四週間の休暇を楽しんだ。グローバル・クロッシングの会長だったウィニック氏は、同社が窮地に陥って米連邦破産法第11条を申請する前に七億ドル以上の持ち株を売却し、今でもカリフォルニアの大邸宅で優雅に暮らしている。
持ち株を売ることを許されず、職も失った破たん企業の社員と違い、企業が破たんしてもその運命を誰よりも先に知っていた経営者は株を高値で売り、経済的な心配をすることなく余生を送れるほどの資産を築いた。
彼らが法的に罰せられる日はいつかくるかもしれないが、それはあまりにも緩慢なプロセスである。そして、たとえ罰せられたとしてもその資産が没収されることは決してない。
経営者は富を懐に
もちろん、もう少し厳しい現実に直面している役員もいる。エンロンの元最高財務責任者のファストウ氏は金融機関の口座を凍結され、活動範囲も限定され、パスポートも取り上げられた。しかし70万ドルの邸宅に住み、別荘も2つ所有したままだ。
日本で一度失職すると次の職に就くのが難しいのと同様、失業率6%のアメリカで新しい仕事を見付けることは容易ではなく、破たん企業の従業員にとって経営者のこの暮らしぶりは信じがたい事実である。
自分の強欲を満たして富を懐に移して企業を破たんさせた経営者と違い、退職年金をすべて失った従業員にとっては、刑務所に入るだけでなくその富が没収されなければ納得できないだろう。しかし、もちろんアメリカにそのような法規制は整備されていない。
社会主義経済の失敗をあげて、所得の平等を重視しすぎ、努力してもしなくても同じ成果を得られるようにすれば誰も努力しなくなる。結果、社会の成長だけでなく安定さえも損なわれる、貢献度に応じて正当に報われる仕組みがないとリスクを冒してまで挑戦しようとする者がいなくなる、企業は成果を残した者とそうでない者との間に明確な賃金格差をつけるべきだ、というのが米国経営の根本にある。
それが高額なCEOの報酬なのだ。そして企業経営は、会社の発展や社員や地域とのつながりを犠牲にしても短期的な利益を上げることが目的となり、それに対して経営者とその仲間たちが高額の報酬を得られる仕組みづくりに熱心になっているのが今のアメリカの実態だ。
利益追求一辺倒
かつて「ゼネラルモータースにとってよいことは、アメリカにとってもよいことだ」と言われた。これは企業が国民が欲しいものをつくり、それを買うための雇用を提供し、それによって企業が栄えて国民も一緒に繁栄する、という意味だ。
これがどこまで真実だったかは分からないが、明らかなのは、もはやそれが当てはまらないということだ。米国企業の経済活動は利益追求一辺倒となった。経営者は簡単に企業を売り渡し、従業員のことなどおかまいなしに、自分の立場の不安定さを心得ていて高額の報酬を設定する。
米国の経営手法を取り入れた日本の経営者も、入社当時は報酬の多寡にかかわらず会社や仲間たち、地域のことを考えて職務を遂行し現在の地位に就いたはずだ。報われる仕組みが整っていなくともまじめに業務を行い業績を上げたのであって、過度の報酬があったから努力をしたわけではないはずだ。
経営者のみならず、企業活動が物づくりから金もうけに変わったことは違法ではない。しかし、それによって人々の職が奪われ、地域社会に打撃を与え、社会不安がもたらされているという事実を、われわれは忘れてはならない。