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東京 1月3日(ブルームバーグ):デフレは単なる貨幣的現象なのか。日本銀行が輪転機をフル回転し、紙幣を刷り続ければ、いつかデフレは解決するのか。それでデフレが解消すれば、日本経済が抱える病は癒えるのか。3月の日銀総裁の交代を前に、再び金融政策頼みの空気が強まっている。「デフレと生きる」総集編(下)は、デフレの背景にある「病巣」をめぐる論争を振り返る。
「構造問題とは結局、政治の問題だ。われわれが毎日見ていることは、政治改革がいかに難しいかを如実に表している。政治改革は最終的に一票の格差の是正に行き着く」(国際通貨研究所の行天豊雄理事長)、「日本は年金、医療、教育とあらゆる制度が持続不可能になっている。永田町や霞が関主導では、これらの制度を変えることはできない」(慶應義塾大学の榊原英資教授)−−。政治と二人三脚で歩んできた財務省OBが、政治への危機感で口を揃える。
政治の指導力が最も求められているときに、政治の弱体化が顕著になっている。京都大学の佐伯啓思教授は「これは根の深い問題だ。日本は第2次世界大戦後、国益や戦略といったものを定義する必要がまったくなかった。外交はほとんど米国に委ね、米国を通して世界を見ることに慣れてきた。国内的には、戦後民主主義のもとで、国民は経済成長によるパイの拡大に関心を集中し、いかにその配分に与るかに血道を上げてきた」と言う。
変わらないニッポン
自民党の渡辺喜美衆院議員は、政治の側からこう語る。「今経験しているのは、戦後だれも経験したことのない経済だ。1930年代の世界大恐慌や19世紀のデフレ経済に学び、大胆な発想を政策に生かすことのできる人がトップに座らなければならないのに、政治家も官僚も年功序列なので、いつまで経ってもピント外れになってしまう。われわれチンピラクラスはリングの中に上げてもらえないので、今のところ場外乱闘になるしか出番はない」−−。
自民党の塩崎恭久衆院議員も「政治の世界に身を置いて、現状を変えることの難しさを実感する」と語る。自民党以外に選択肢が少ないことも閉そく感を強めている理由の1つだ。民主党の仙谷由人衆院議員は「民主党も本物の改革路線を走り切れるのは全体の2、3割程度だろう。世代交代を含めて、政策を軸にした政界再編が同時並行的に起こってこないと、単に政権が変わったからといって、危機に対応できるものではないだろう」と話す。
政治が変わらないのは、言い換えれば、政治家を選ぶ国民が変わろうとしないから、とも言える。変わらないのは国民の総意かもしれない。佐伯教授は「自民党の守旧派が公共事業削減に反対すると言われるが、かれらにしても、地方でムダなことをしていることは十分分かっているはずだ。しかし、地方の経済的、社会的生活そのものが完全に公共事業に取り込まれてしまい、それなしには地方が壊滅してしまうので、やめたくてもやめらないのだ」と語る。
地方に活路はあるか
政治に対する不満は、われわれ有権者にとって天に唾する行為でもある。吐いた唾は自らに降りかかってくる。富士通総研の福井俊彦理事長は「戦後50 年のサクセスストーリーの過程で、社会のすみずみに既得権が生じ、自分だけは埒外にいて、人が築いた橋の上を安全に渡りたいと思っている人が多い。1人ひとりの前向きで主体的な行動が必要なときに、行動する人の数は極めて少なく、橋を掛ける作業と橋の上を渡る作業をともに危うくしている」と言う。
袋小路から抜け出すため、地方に活路を見出す動きもある。宇沢弘文東京大学名誉教授は「10年くらい前まで、東京で起こることは地方の何年か先の姿を先取りしていた。しかし、東京で起こっていることは必ずしも良いことではない、と地方の人たちは思い始めている」と語る。個性的な知事が次々誕生しているのも「土着の歴史や文化を大事にし、自然と調和の取れた持続的な経済活動を追求しようという動きが、一般の人々に支持されているからだ」−−。
日銀那覇支店長の内田真人氏は「沖縄がこの30年間、目標にしてきたのは、全国との格差を埋めることだった。その結果、公共事業や補助金という形で国への依存度を高め、そこに安住してきた面もある。しかし、すべて東京式でやってきたことが本当に良かったのか、省みる気運も出てきた。沖縄をミニ東京的都市にしようとしても、地理的、環境的な外部環境が違うので、意味はない。仮にそれを実現したとしても、沖縄を味気のないものにしてしまう」と言う。
発想の転換
八方ふさがりの閉そく感が漂うなかで、もう1つの突破口が「発想の転換」かもしれない。都留重人一橋大名誉教授は、国民消費の対象を、A)福祉にプラスで市場性のある基礎的需要、B)市場性のある任意的需要、C)市場性のないもの、D)福祉にマイナスのもの、E)反福祉事象への対策措置−−の5つに分類する。このうち、GDPを構成するのはA、B、Eで、市場性のないCは入らず、Dは差し引かない。そのうえで、都留教授は次のように語る。
「Bには広告でだまされる買い物も含まれる。Cの典型は専業主婦で、福祉面の貢献は極めて大きいが、市場性がないためGDPに入らない。Dのように、環境破壊など福祉にマイナスのものも多い。Eには危機意識を煽ることで増える国防費も含まれる。こういう構成を持つGDPの増加が生活水準の上昇だという考え自体が正しくない。真の豊かさは、成長率を指標とするものではなく、生活の質を高めることで得られるという“発想の転換”が必要だ」−−。
慶應義塾大学の池尾和人教授は「社会全体が苛立ち、解決願望が強まっているのは、現実の自分の姿より高い要望水準を持ち続けているためだ。このまま行けば、要望水準が下がらないまま、現実だけは悪化し、ますます苛立ちが募るだろう。その結果、自暴自棄になるのは絶対に避けなければならない。そのためには、もう少し社会の要望水準自体を引き下げること、いわば“諦(あきら)める”ことが必要だ」と言う。
主体的な選択
ハーバード大学のJ.K.ガルブレイス名誉教授は、長期の低迷に苦しむ日本について「過去10年、われわれが目撃してきたのは、人々が十分成熟し、余暇を楽しみ、自らの人生に満足している国だ。失敗だと言われたこの10年は、実は、もっとゆったりとした生活、もっと喜びのある生活に適応する過程だったと言えるだろう。日本が今、経済の世界で新たな時代を作り出しつつあることに、わたしは何ら疑いの念を抱いていない」と語る。
なぜならば、とガルブレイス教授は言う。「人々が求める経済生活に自らを適応させる点で、日本は世界で最も高い能力を発揮してきたからだ。生産が必要だったとき、日本は財の供給で世界を圧倒した。人々は今、より多くの余暇と喜びを求めており、日本は再び世界を先導しようとしている。悲しいのは、日本人自身がそれに完全には気付いていないことだ」−−。最後にここで、連載「デフレと生きる」の第1回と第2回で行った問題提起に戻ろう。
自ら選択し、合意を形成したうえで長期低迷、縮小均衡を甘受するならまだ良い。しかし「主体的な選択もないまま、長期低迷ということになれば、米国の背中をみて惨めな思いをしながら、生活水準の低下に甘んじなければならなくなる。一縷の望みがあるとすれば、生産性の上昇、技術革新だ。それもかなわず、かといって、自ら選択して生活水準を切り下げるのが嫌であれば、この国から逃げるしかない」(みずほ総合研究所の真壁昭夫主席研究員)−−。