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l 問われるメディアの価値判断★
日本のメディアのノーベル賞取材に関するコラムを読んだ(朝日新聞12月14日「私の視点」)。学者でもない田中耕一さんが、ノーベル賞を受賞したことは、長年にわたる経済停滞ですっかり自信を失った日本人にとって、今年いちばんの明るい話題であったに違いない。
それにしても、日本からノーベル賞の取材に押しかけた報道陣は100人をくだらなかったといわれると、筆者のビヤネール・多美子さんならずとも首を傾げたくなるだろう。ストックホルムで開かれる他の国際会議で「日本の記者を見ることはまれだ」として、「なぜ一様にこれほどの散財をして、田中さんの一挙手一投足にこだわるのか」わからないと彼女は言う。
これだけの人数をストックホルムに送り込んだ理由を問われれば、日本のメディアはこう答えるだろう。「田中さんのことを読者や視聴者が知りたがっているからだ」。つまりメディアの役割のひとつは、一般の人々が知りたがっている情報を提供することだ、ということである。
たしかにそれがメディアの存在理由の一つであることは否定できない。ただ気をつけなければならないのは「知りたがっている」ということと、「報道する価値がある」ということは必ずしも一致しないという事実である。
たとえば大リーグに移籍したイチローの成績をニュースの時間(スポーツニュースではない)に毎日伝えることが必要だったのだろうか。「今日は試合がありませんでした」というアナウンサーのコメントを聞いたときは仰天したものだ。
ニュースとは報道する側が選ぶものである。世界で起きているさまざまな出来事を集め、それを選別して読者や視聴者に伝える。それがニュースだ。そこには伝える側の主体的な判断が入るし、その判断こそ読者や視聴者がメディアを選ぶ基準であるはずだ。つまり重要なニュースをこれは重要だと教えてくれるメディアが読者や視聴者にとって役に立つメディアなのである。
日本のメディアを見ていると、どうもそのあたりが危うい気がする。読者や視聴者に媚びるあまり、視聴率や販売部数にプラスになるニュースばかりを追いかける傾向が目立つような気がするからだ。いろいろなメディアが皆そうなれば、そこで報道されるニュースは結果的に画一的なものになる。拉致被害者に対する取材などもその典型かもしれない。あまりの取材陣の多さに結局は「代表取材」という形になって、そこから流れるニュースは似たり寄ったりになる。
権力によるメディアの操作に関しては、日本のメディアも敏感である。個人情報保護法案などに反対するのも、取材に関して規制の網がかぶせられる恐れがあるからだ。しかし視聴率などに縛られた取材は、メディアにとっては「緩慢なる自殺」なのかもしれない。自分自身でメディアの本来の役割を放棄しているに等しいのである。メディアで働く人間が、どれだけ緊張感をもって世の中の出来事を追うか。私自身も含めて、常に自戒の気持ちが必要だろう。
(藤田)
Newsweek Japan Onlineより
まったく同感。 田中さんに対して個人的に非常に好感をもって見てますが、マスコミに取り上げかたは酷い。 アザラシのたまちゃんの扱いかたとほぼいっしょ。情けないね。
拉致被害者の報道も酷い。今日は温泉行っただのどうでもいいじゃないか!
マスコミが悪いのか、日本人の民度が低下したのかその両方か?
Ddog