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jimmyさんが転載してくれた「金融危機とデフレ経済を解く(3)【吉田繁治】」( http://www.asyura.com/2002/hasan16/msg/449.html )へのレスです。
(jimmyさん、すぐにレスを書くつもりだったのですが、他の書き込みやサイトの変動で忘れてしまい遅くなりました)
吉田繁治氏の今回の論考は理念的な内容になっている。
「開かれた地域主義」や「利潤なき経済社会」という考えを提示したものとしては、それなりの親和性を感じているが、現在の経済苦境を克服し、現在の世界経済システムのなかで国民経済を維持していくという視点から見たとき、やや“先走り”という印象が拭えない。
>国家の運営が税でまかなえなくなれば、最後は通貨への不信が起こって、(時期はと
>もかく)負債の自動的な清算である「インフレ」が待つ。デフレはインフレの準備で
>す。世間の方向は、「政府依存」です。政府依存の先を見なければならない。
「デフレはインフレの準備です」というのは至言である。
デフレの“痛みに耐えられる”期間は限られているので、失業者(就業断念者)の増大や年金受給資格者の増大が赤字財政支出の激しい増加を招くことになる。
そのとき、潜在的にでも供給力が維持されていれば問題は少ないが、国内供給力が毀損された段階であれば悪性インフレに向かう可能性が高い。
日本は、先進諸国で唯一と言えるが、73年の石油ショックで生じた悪性インフレも生産性の上昇で乗り切ることができた。
しかし、中国に代表される新興産業国との競争関係にある現段階で同じことができると予測することにはためらいを感じる。
「政府依存」については、ことさら「政府依存」を問題視するのではなく、マクロ経済における政府の役割とミクロ経済における民間の力をきちんと峻別する必要がある。
デフレの解消はミクロ=企業レベルで対応できる問題ではなく、政府・日銀をもってして成し遂げられる課題である。
産業構造の転換はミクロの力の見せ所であるが、それとて、スムーズな転換のためには税制及び財政支出を活用した政府の関与が不可欠である。
>■1.共同体になった企業組織
>▼巨大になった共同体が崩壊する時代
>社会の隅々まで張り巡らされていた「企業序列の巨大構造」が、国内では年齢構成の
>変化によって、海外からは比較上の低賃金労働で生産する製品の侵入によって、崩れ
>てきたのが90年代でしょう。
>いずれも後戻りができない原因ですから、日本経済や企業が、過去に戻るような「再
>生」はない。エコノミストの議論は、GDP(国内総生産≒国民所得)の量の上昇と下
>落です。問題はGDPの内容ですね。価格デフレが終われば解決して、規格品量産で成
>功してきた日本経済が再生するというのは誤りです。
>「規模の経済」の時代が終わって、一人一人の顧客との関係を重視することが成果を
>あげる経済が、パーソナルコンピュータによるネットワークによって始まったと見な
>ければならない。21世紀はそうした時代です。
>おそらくバブルの時期に、本来は不得意な大きなもの、大きなこと、巨額資本の運営
>もできると錯覚したのではないか? ここに根本的な、方向の誤りがあるように思え
>ます。
>メガバンクの経営など、日本人には、不得意なことです。パーソナルコンピュータ
>も、ナノテクも小さい。これから家電も機械もどんどん小さくなる。巨大工場の時代
>は終わった。
>小さくて巨大資本も要らない。先鋭的な知識と技術があればいい。小さくキリのよう
>にとがって専門化することが、ネットワークと情報化ロジスティクスで世界的になる。
>「巨大になった共同体」が、世界的に言っても、小さく分解して崩壊する時期である
>と見ています。巨大企業組織の共同体化は、日本だけではない。世界に共通です。
吉田氏の気持ちはわからないではないが、今後の世界は、ますます資本の巨大化や集約が進んでいくと予測している。
これを見誤ると、国際競争に勝てなくなる。
個人レベルのコンピュータネットワークは、大いなる可能性を秘めているとしても、小資本事業の隆盛を意味するものではない。
端的に言えば、金融や情報という巨大資本の新しいビジネスモデルを可能にすることが基本で、小資本にはニッチを増やしてくれるだけである。
コンピュータネットワークを使って書籍さえ配送することができないというのが現実である。
巨大資本も、従来型の量志向では競争に打ち勝てない環境になっていることを意味しているだけである。
「ナノテクも小さい」というような論拠を持ち出しているが、ナノテクの技術力や製品化がどれほどの技術集積の上に成り立つものであるかや小さな高機能製品がどれほど高集積生産設備によって製造されるかを理解していない。
日本は世界一の産業国家として、通常製品レベルでずば抜けた開発技術力と量産化技術を持っているから、ナノテク分野でも大きな可能性を持っているのである。
そのような技術力と製造能力は、巨大資本を頂点とした日本型産業構造のなかに育っている。だから、大企業だけを生き残らせる政策をとれば、日本の技術力や製造能力は崩れていくことになる、
デフレ解消後も従来型製品をそのまま量産していけばいいとか、在来の経営手法が通用するとは考えていないが、開発技術や生産技術の蓄積的継承性やさらなる資本の有機的構成の高度化(巨大資本の必要性)を踏まえなければ、今後の国際競争で打ち勝つことはできないと考えている。
>■2.存在の自己目的化
>小規模な「ムラ」に戻ればいいのです。そして、小規模なことをやればいい。小規模
>であることが、生産性が低いという時代は終わった。今後の時代は、小規模であるこ
>とが生産性を高める。パーソナルコンピュータとネットワークは、そのためのツール
>です。規模の優位性を無効にします。
人的組織の小規模化と資本の大規模化が並行することを理解していない。
1000人で生産していたものを20人で生産できるようにするためには、資本の有機的構成の高度化すなわち生産設備の巨大化が必要である。
生産設備は物理的に小規模であっても、それに詰まっている技術力が高度で濃密なものであり、超高価なものである。
日本企業が、そのような技術段階に対応できる組織論を持っていないことは現実である。
DRAMからゲートアレイや専用チップに資源を振り替えていることが、新時代に向けた組織論を生み出す可能性があり、それができなければ台湾メーカーに勝てないだろう。
中隊長の号令に基づいて数百人が動くという時代は終わり、中隊長クラスが数人もしくは数十人集まって活動する時代がやってくるだろう。
>巨大ショッピングセンターの運営は日本人に向いていない。おそらく10年後には、多
>くが廃墟になるでしょう。他国に比べれば異常に発達した、売り場30坪のコンビニエ
>ンスストアのような細かく緻密な商売が、日本人は得意ですね。
コンビニは、その名の通り利便性が売りであり、夜間営業や近隣商売で伸びてきた。
巨大ショッピングセンターは、娯楽や快楽としての買い物を行う場として生き残るだろう。そのような視点で巨大ショッピングセンターを運営していないから、思うように実績が上げられないだけである。巨大ショッピングセンターこそ、緻密な商売感覚が求められるのである。
コンビニは、その性格から否応なくチマチマ(緻密)したものになるという話である。
>■3.巨大組織に蔓延したモラルハザード
>経済の法則は、どんな性格のものであるか、といつも考えます。自然科学的なものあ
>ると仮定すれば、人間はその法則を勝手に変えることはできない。引力の法則は、
>さぁ王が通るからといって、引力に頼んで、一時停止させることはできない。(笑)
>今この国には、政府万能神話がはびこっているのではないか? エコノミストの議論
>を聞くと、そう思えるのです。法と制度で、経済を統御できるというのは、幻想では
>ないのか。
近代経済システムは、経済事象を自然現象のように説明することが可能な特異な経済社会であるが、人々の主体的判断と活動によって動いているものであることに違いはない。
法則に逆らって経済活動を行えば破綻してしまうが、政府及び中央銀行を含む人々の関係性で動くものであり、その中核を通貨が担っているのだから、法則の現出状況を変えることはできる。
政府・中央銀行は万能ではないが、マクロに対しては重要な変動を行うことができる存在である。
逆に言えば、マクロを変えることができるのは政府・中央銀行だけである。
(政府の機能のなかには、正しい経済論理の普及や法的処置・税制変更を含む)
マクロ状況が変われば、ミクロ(企業・家計)の動き方が変わることになる。
経済は、合理的な手法を用いればある程度まで統御できるのである。
>■4.共同体への転化
>▼功による長という序列
>機能集団におけるなんらかの「功」が、共同体内部の「序列」に転化するというの
>は、日本企業の組織の内容、つまり「長」の制度の特性をよくあらわしています。
日本企業の組織論で最大の誤りは、身分序列と機能(ファンクション)を混同していることである。
“長”が付く人を管理職と呼ぶことにそれが如実に現れている。
管理はファンクションなのであり、その業務ができる人であれば、身分は下っ端の人でいいのである。
仕事に没頭していれば、プロジェクトの流れや期限などを忘れてしまう。
管理職の人は、それを統御するのである。管理職は、ファンクションとして、上位身分の人に警告や指示を出すことになる。
このような組織に切り替えていかなければ、日本企業は競争に打ち勝つことができないだろう。
>■6.銀行は信用金庫化が新しい方向
吉田氏の考え方に基本的に同意する。
世界企業化した日本の大企業は、社内に経営・財務の優秀なスタッフを揃えている。
それらのスタッフは、自社の技術力や特質を熟知した上で財務などの知識を持っている。このような意味から言えば、銀行のスタッフよりも優秀である可能性が高い。
ところが、中小企業は、技術者・製造ライン・営業職というぎりぎりの体制で事業を展開しているところが多い。社長が経営から財務までをひとりで担っている。
こういうところにこそ、銀行が蓄積してきた経営や財務に関するノウハウの提供が必要なのである。そうであってこそ、銀行に利息を得る権利があると言えるだろう。
>これが21世紀です。横並びで、差異化のない商品とサービスは、次々に消えます。時
>代は、規模化と量産の後の近代化の後の世界、Post-Modernismに向かっています。
差異のある商品を低コストで生産し、世界市場に打ち出していくかが問われる時代になると予測している。
しかし、これこそ、基礎に規模化と量産技術が求められるものである。
(地方名産品や手工業的商品とは別次元のものが世界需要の大半を占めることは間違いない)
技術力が凝縮した高価な設備投資とこれまで培ってきた量産技術を駆使して、差異性がありながら低コストで供給できるシステムを築くことが日本のめざす道である。
スイスでも米国でもない、日本型の産業システム構築が必要だと考える。