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▲ 十、
私は、西洋の「哲学者」、「思想家」、「作家」、「宗教家」、「詩人」、そして「一般の西洋人」の中に、唯一人でも、このように問うた者のある史実を知らない。
否、むしろ、「西洋哲学」は、
畜産(家畜制度)を、問答無用の絶対的前提、自明の原理、公準$axiom$、と認めるところから、思考を始めたのではなかろうか。
アリストテレスの「目録」は、
★ T 自由人
←
U 奴隷(家畜人)
←
V 家畜
←
W 野生動物
←
X 栽培植物
←
Y 野生植物
←
Z 鉱物
と整理出来る。
私の知る限り、二千五百年の「西洋哲学」の歴史の中で、この「階級構造」の全体を、正面から、堂々と批判した思想家は見当たらない。
Tの自由人は、主人であり、主体である、
U以下は、ご主人様の欲望を充足させるための材料$マテリアル$である。
ご主人様の都合によって、UからZまでの各項の順位は変更される場合もあり得る。
或る種の家畜は、或る種の奴隷の上に位置付けられる(今日、欧米の中流以上の「市民」が飼猫飼犬のために支出する資金は、最貧国の庶民の生活費より多い)。
水は、どこに入るのであろう。
空気は?
否、なによりも、太陽は?
それを適当に処理することは、別に難しく問題でもない。
何故なら、ここでは、
「自由人=理性$Reason$的なる存在」、
と前提されて居るからである。
西洋哲学の核は、「理性$リーズン$」、と言う用語である。
Reason$リーズン$とRationale$ラショナル$=原理、Rationality$ラショナリティ$=合理性、Rationalism$ラショナリズム$=合理主義、とは、よく似て居るが、微妙に違うようだ。
太陽は光を与える、しかし太陽に理性はない。
故に、理性を有する自由人にとって、太陽もまた、材料$マテリアル$に過ぎない。
水はあらゆる生物のいのちの元である、しかし水にもまた、理性はない、
故に、理性人のための資料$マテリアル$である。
こんな具合に、忽ち、然るべく、「位置付けられる」。
唯一の難問は、
それでは、「自由人」(主人、主体)とは何者か、
「自由人」の由来は?
そしてその資格は?
それを決定することである、「理性的」に、「合理的」に。