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(回答先: 「原理論」に対するレスです 投稿者 あっしら 日時 2003 年 3 月 08 日 21:30:01)
あっしらさ。 レスありがとうございます。
(レスをいただけば、その刺激で書くべきことや説明のポイントが少しは明瞭になるので助かります。)
本当に良いんですか? それでは少しずつお伺いしますので宜しく。
どうもありがとうございます。 ただ、あっしらさんもニュース分析だけではちょっと刺激が足りないですよねということでご勘弁下さい。
あんまり愚問にならないように気をつけたいとは思うんですが 私の能力不足からそうなってしまうかもしれません。
「高付加価値製品」というのはマズイ表現でした。撤回します。
イギリス側が機械檻産品で利益を上げ、インド側を窮乏に陥れた点を強調する意図だったんですが、「高級品」の意味になっていますね。 失礼しました。
(インド人は、英国製綿織物の流入が人々の生活基盤を破壊し共同体を崩壊させると考え、その排斥運動を展開しました。それを武力で抑えこもうとするとともに、財の供給ができなければ英国製を買うしかないだろうということで織物工の手首を切ったのです。)
インド人は世の中が良く分かっていたようです。 リカードなんかクソ食らえでしょう。 日本人はどうなのか。 手首を切る必要はありません。 おとなしく首を切られてます。 奇怪なことではありませんか?
(寄生者は、リカード的理屈付けでは貨幣的富の極大化うまくいかないことがわかっているので、必要不可欠の公共財やクレジットカードや電子マネーといった日々の取引から利益(養分)を吸い上げようとしています。)
閉じた世界において、どうやって富を吸い上げるのか?
これは寄生者にとって難問に違いありません。 共同体間の「差異」から富を吸い上げられないからです。
この前提において、「公共財の私有化」「生活の全面的金融化」によってどれだけ富を吸い上げられるのかは、私には疑問が残ります。 長期間にわたって安定して富を吸い上げることが果たして可能なのか。 この条件下では、人々は次々と破産するに違いないと考えるからです。 生活の全局面で金と利息とを取られ続けていくわけですから。 一種の「焼き畑農業」みたいになりませんでしょうか?
(【世界経済を認識する基礎】で書いたことですが、交換(市場経済)は異なる共同体間の遭遇によって起こったと考えています。)
この点はもっと考えてみます(皆さんにとって興味のある内容かどうかは分からないんですが、私個人にとっては興味のある論点です)。
(そして、いわゆる先進国は、多くが貧乏になるのでなく、「最大多数の最大幸福」と錯誤させられる経済条件を実現しました。 これが、先進国国民が「近代」に疑念をなかなか持たない所以です。)
重債務国国民にとっては、既に回答は出ていますね。
「先進国」と「重債務国」とで「連結決算」を実行すれば、「近代」が人々にとって「全体として」−か+か良く分かるんじゃないかと思っています(経済学者はこういうことはあまりやらないようですが)。
「閉じたカルタゴ的世界」では、長期的に見ると否応なしに「連結決算」になるものと考えています。 この条件下では、「先進国国民が「近代」に疑念をなかなか持たない」状況は継続し得ません。
従って、かりに「世界最終戦争」に米英支配層が「勝利」(どういう勝利かは別として)した場合であっても、やはり結末は同じかなあとも思います。
(寄生者ではないのに、「小泉改革」や新自由主義の信奉者は、日本をそういう未来を向けて動かしています。)
もはや「寄生者」として生きることを自覚的に選択しているんでしょうか? それならそれで確信犯に過ぎません。 しかし、もし確信犯でないとすると「喜劇」ですね。 イラク戦米英軍事行動支持のときにも同じことを感じました。 「悪魔崇拝」は確信をもってやってほしいものです。
(遊牧民族の一部が地中海国際商人集団になったこと、そして、その活動拠点が崩壊したことが、寄生の世界化の始まりだと考えています。)
物騒な言い方ですが、「焼き畑農業」みたいな感じですか。
「閉じたカルタゴ的世界」では、けっきょく、個人相手に「焼き畑農業」をやるという結末になるのかなあ。