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(回答先: 03/02/24 今日の本来の普通の中年の人格に基づく言動 投稿者 げいた 日時 2003 年 2 月 25 日 07:37:00)
げいたさん、こんにちわ。
>『「事実」も認識の成果であれば、「論理」も認識の成果です。
> 「在る」というのは、「事実」のことではありません。』
>んー、なんか「在る」から、認識できるんだと思います。
>空想ってのもありますが、空想の結果、空想が「在る」んでしょうね。
>罪の在る無しは別として、嘘の一種ですよね。
「在る」と認識や意味の関係性は、「「在る」から、認識できるんだ」という表現に相当するものだと思っています。
主体が認識するから、「在る」ものに意味・仕組み・規則性が付与されるということです。
空想は思考(認識)主体の内的問題ですから、「在る」わけではなく、主体がこれまで蓄積してきた現実認識に対する思考(認識)を通じてつくり出された現実認識です。
“意識的な”嘘は、空想とは違います。
“意識的な”嘘は、それが事実ではないと本人が認識していることを事実として他者に了解させようとするものです。
>あれ?「在る」って、「認識された」ってことだと、おっしゃってますか?
>やはり宇宙では、誰も認識してなくても、いろんなことが起こってて、「在る」んで
>しょう。
「在る」というのは認識以前の存在性のことです。
おっしゃられるように、「誰も認識してなくても、いろんなことが起こってて、「在る」」存在です。
>事実と論理については、データとロジックといった意味なんですが、わかりますか?
データもロジックも認識の成果であり、「在る」そのものに内包されているものではないということです。
>『“意味”という概念的操作は、認識主体が行うものです。』
>「意味」って、概念的操作なんですか?
>?
>私は、操作もなにも、理解するだけですけど。
>?
>理解って、概念的操作なんですか?
>?
>言葉遣いから見て、なんか間違っていらっしゃる。
概念的操作とは、言語的認識過程のことです。
直感的理解は概念的操作性が薄いものですが、それでも、認識主体の内に構築された概念世界に強く影響されたものだと考えています。
『「認識主体自体が、対象世界だったり、現実世界だと思うんですよね」というご指摘は、認識主体自体も対象世界=現実世界の構成要素ですから同意します。』
おお、おお、ご理解いただけて、うれしいです。
>『認識行為の基本的な目的は、目的的活動をうまく達成することですから、主体も現
>実世界としてきちんと認識し意味を与える必要があります。』
>まず、『うまく』っていう、あっしらさんの言葉遣いとしては異様ともいえる意味や定>義が曖昧な言葉に、ひっかかるんですが、とりあえず、私の場合、現実世界での一番
>うまいやり方ってのは、とことんずるをしないことに違いない、そうだそうだ、そう
>しよう、などと思ってることを、断わっときます。
今回のテーマに関する説明は、価値判断をできるだけ排除したものになっています。
善悪とか美醜といったことは無関係の説明だとご理解ください。
“うまく”というのは、何かを実現するのに、予め考えた手順・方法で、余分な苦労をほとんどかけないで済んだということです。
>なんか、生存活動とか言ってたじゃないですか。
>普通は「生命活動」ですよね?
>もしくは、「生存競争」。
>競争が悪いとはいいませんが、生存が目的なら、競争より協力のほうが、はるかに有
>効で合理的なのは、論をまたないと思います。
>人間の生存競争ってのは、社会ダーウィニズムって奴ですか?
>馬鹿馬鹿しい。
>要するに、戦いたいんですよ、馬鹿どもは!
「生命活動」は、生物体の内的活動というイメージで捉えていますので、内的活動の充足を含む人々の活動は、生存活動と表現したほうがいいかなと思っています。
冗談を言ったり、祭りに興じるのも、生存活動に含意しています。
後半部分は全面的に同意します。
おっしゃられる通りで、他者を自分の欲求実現の道具ないし手段として考える人たちが、バカな言動を繰り返しています。