★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 議論・雑談8 > 426.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
丁寧で興味深いレスをいただきありがとうございます。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/426.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 24 日 21:02:14:

(回答先: あっしら様へのレス(長文) 投稿者 ぷち熟女 日時 2003 年 2 月 24 日 18:45:41)


ぷち熟女さん、こんばんわ。


まず、仏教について我流で言いたいことを書きましたが、私自身は、仏教に帰依したり仏になりたいという気はない人間です。
(けっこう好きな世界観であり実存観ですが)


>差し詰め、あっしら様は、女性専用車両容認派、でございますのね。
>(並びに、もしかして『男はみんな潜在的痴漢予備軍』派、性悪派、で
>いらっしゃいますか・・・別のスレでそうではないとおっしゃってはいるけれど。)

このテーマに関して何も書いていないことに気づき補足を書き込もうかなと思っていましたが、レスをいただいたのでここで少し書きます。

まず、痴漢については、犯罪であっても悪だとは考えていません。
別のスレで書いた“わがまま”の行動化に近いものだと思っています。

身体が触れ合うこともない状況で痴漢行為におよんだり、スカートやパンティのなかまで手を入れたら悪だと思いますが、外から撫でる程度は“わがまま”な迷惑行為だと思っています。

だから罪がないということではなく、罪を犯したことは確かですから罰を受けるのは当然だと思っています。
(私がスケベなせいかもしれませんが、やわらかな身体が触れ、性感をくすぐる匂いが漂ってくると、ちょっと能動的な性的手出しをしてみたいなと思ってしまいます)

満員電車でのソフトな痴漢行為に関しては、男はみんなとは言いませんが、けっこうな割合で『潜在的痴漢予備軍』ではないかと思っています。

「女性専用車両」は、それで嫌な痴漢被害を受けないというのであればそれもいいんではとは感じくらいで、強い賛否意識は持っていません。

本も読めず無為のまま苦痛のみ味あわされる電車の寿司詰め状態を解消することが、痴漢減少につながると思っています。

>1) 『女性もいますが、仏教は、生理・妊娠・出産という生物性から“解放”されて
>いる男が思念的に自己超越したいと願って走るロマンチックな対象だと思っています。』

>男性諸兄は生物性から解放された存在であるのか・・・?
>あら、全然そんなことないじゃございません?
>だって、通常の健康状態にあられますと、『排泄』なさってもなさっても
>精嚢はまたすぐ満タンになっちゃうでしょ?
>男性も生物性とは、まことにどっぷりと繋がってます。
>当たり前じゃないですか、生物なんだから。


まず、生物性から“解放”されてというのは、錯誤してそう思うひともいるということで、現実に解放されているという趣旨ではありません。

男性は、女性よりも、物質性はないのに優れた知性と能力を持っているとされる超越神的存在に自分を近づけられると錯誤する生物的条件があると思っています。

理念的な存在を理想と考えると、排泄・食事・性行為などに動物性を感じ、それに自分が引きずりまわされることを嫌う傾向もあるようです。

シャーマン的な祭祀には女性も数多くいますが、啓示宗教に代表される論理宗教の創始者がことごとく男性であるというのも、そのへんが関わっているのではないかと思っています。

女性なら、「そんなことを言っても、子供を孕み生むのは生身のこの私なのよ」と思うでしょうが、男性は抽象的な価値観を素晴らしいものとして受け入れる素地があると思っています。

>男のロマンねえ・・・。これもまた、女にとっては年が幾つになっても
>ミステリアスで不可解なものであり続けるのでございますが
>(特に、あれを人・・・女であれ家族であれ・・・をないがしろにする
>口実にする男がいると、蹴り倒したくなるものでございますのよ。
>はた迷惑なの、現実逃避やネグレクトをロマンとすり替える人間は)、

>とにかく、私は純粋培養されたものの耐性に関しては非常に懐疑的でございます。

いろいろと愚にもつかない書き込みを行っているので、ロマンを捨て切れない男の一人なのかもしれませんが、ロマンを何かをなにがしろにする口実にする男は蹴り倒されても仕方がないでしょうね。

「純粋培養されたものの耐性」は儚いものです。

>2) 『仏教は、生身である自己存在に嫌気がさした人の選ぶ道だと思っています。』

>これは一種の自己否定かしら?
>あるがままの自己を受け容れないところから出発するのでしょうか?
>不健全じゃないかな? 修業がうまくいかないとパキッと折れて
>神経衰弱に陥っちゃったりして・・・(だって、無菌状態の環境で修業して、
>仏になれたと思って娑婆に出るなり煩悩発作に見舞われちゃったり・・・)

自己否定と自己肯定のない交ぜから生じる意識だと思います。

そういう葛藤をより上位の思念で超越したいというのが、修行に踏み出すきっかけではないでしょうか。
この意味では、あるがままの自己を受け容れながらもそれに不十分さを感じているから、解脱を志向するんでしょうね。

釈迦も仏になってから俗世で生活したわけではないようですから、娑婆に戻ると、煩悩発作に見舞われることはないとしても、別の悟りに達したかもしれませんね。
(釈迦が語った相手は修行者であり、俗人に対して説教をしたわけではありません)


>あるいは、あるがままの自己を受け容れるのに苦労しているからこそ
>帰依するのでしょうか。
>帰依する方々は、そんなにアンハッピーな(・・・大きなお世話か・・・)方々、
>あるいはある意味、『敗北者的』な方々ばかりかなあ?

あるがままの自己に不満足だから帰依するんでしょうね。
その意味では、俗世界に生きる人たちが人生訓や生きがいを求めるのと同じです。

自分のアンハッピーさに気づいた人たちで、なんとかそれを解消したいと思った人たちなんでしょうね。
基本的には勝利志向だと思います。


今のこの世の宗教界に、彼に匹敵する賢者がどれほどいるかは存じませんが、
>この私共の時代には、幸いにして膨大な哲学関連の著作物があり、
>精神医学や心理学の専門家も(保険もききますわよね?)存在いたします。
>こんなことを言っちゃうと思いっきり反発を受けそうですが、
>『あるがままの自己』という存在を否定するような悩みをかかえた時に、
>性急に『宗教にしか救いが見出せない』という結論を導きだすことが、
>どれだけ怠慢に私には思えるか、ということを告白いたします。
>そして、怠慢ならまだいいんですが、危険かも知れません。

哲学関連の著作物や精神医学や心理学の専門家にすがるのと、宗教にすがるのもまったく同じです。(それらは細分化された宗教でしかありません)

どちらかと言えば、精神医学や心理学の専門家にすがるほうが危険だと思っています。

>『帰依しさえすれば、神や仏、教祖、あるいは教義や秘儀が、自分のかわりに
>そういった全てを癒してくれる』かのように考えると、全面的な依存に陥り、
>洞察力を失い、似かよったつまずきを反復し、悪化させる危険すらありそうに
>思えるのでございます。

宗教に限らず政治組織なども含めて、そのような危険性をはらんでいると思っています。

それで自己満足を得るだけであれば罪がないのですが、他者に危害を与える可能性もありますからね。


>エゴを捨てることは帰依の大前提かも知れませんが、
>独自の洞察までも捨て去ることは、
>非常に危険だと私は思うのでございます。

仏教はエゴを捨てるかたちでの帰依ではないと思っています。
前の書き込みで書いたように、仏教は究極のエゴイズムです。
意味のないエゴや誤ったエゴに囚われない法悦的エゴを目指すものだと思っています。

仏教は、釈迦がこう言ったではなく、私は釈迦の言葉をこう聞いたという我聞が基本ですから、独自の洞察を捨てたときは帰依さえも捨てたことになります。


>そうした努力を通して、自分が、マザーネイチャーから
>その一部として限りある命を与えられて生まれた存在であることを
>あるがままに認識して生活できるところまで回復した上で、
>それでもなお宗教に帰依して自己を超越したいと真剣に思えるなら、
>それから出家しても遅くないはずです。

「自分が、マザーネイチャーからその一部として限りある命を与えられて生まれた存在であることをあるがままに認識して」も、心地よく生活できないから、家業継承ではなくても出家する人がいるんでしょうね。


>そもそも、『自己』の本来の姿に到達したためしのない方々が、
>一体どうやってそれを超越できるというのでございましょうか?

自分では到達できないと判断したので、先覚者に頼るという修行の道を選択するんでしょうね。


>人間(人間だけではありませんが)が精神と肉体の両方を具有するのは
>自然の摂理なのです。
>自然の摂理を拒否することは、ある面では驕りとも取れませんかしら?

仏になることは、最高の驕りに達することだと思っています。

ただ、それは自己満足で他者を傷付けるわけでもないので、罪の少ない驕りだと思っています。


>それだけではありません。私共は、想像の中では万能であることも可能ですが
>物質(肉体)はそれに制限を加え、我々に現実と闘うことを余儀なくさせます。
>つまり、一方では、物質的制約があるからこそ、最小限の謙虚さを保つ
>チャンスがあるわけです。
>口では何でも言えますが、実現するのは何でも大変なんですから。

全面的に同意します。

付け加えれば、想像でさえ万能ではなく、制約的なものです。

>あっしら様は、きっと大変理想の高い方でおられるのでしょうねえ。

いえいえ、べたべたの現実主義者で、理想といえるほどのものは抱いていません。

雨露と寒さがしのげる衣住条件と手間をかければおいしく食べられる食材、そして、心地よいセックスができる相手がいればいいと思っています。
そして、セックス以外の条件は誰もがそれを得られて、ぎすぎすしない関係性のなかで人々と面白いことができればと願っています。

贅沢を否定はしませんが、それを得るために失うものとの兼ね合いで追求するかどうかを決します。


>私のイメージの中にある宗教家の使命のひとつとは、
>目覚めて霊性を高めたまま存続するために世を捨てっぱなしにするのではなく、
>目覚めた者として人の世のカオスの中に身を置いて、
>ある不動の価値観との対照(コンフロント)を必要とする
>迷える方々のためのひとつの座標になること、といった感じでございましょうか。
>宗教家でありたいのなら、混沌の世を直視し(どんなにくだらない
>愚衆の問題も、です)、それと対峙し、問題の根源を看破しつつ
>生きていただきたいんですの。

究極のエゴイズムである仏教は本来的にはそのような性格の宗教ではありませんが、イスラムやヒンドゥーは言われるような性格の宗教ですね。

“職業宗教家”がはびこっている現状が許容されている限り、おっしゃられるような宗教家は期待薄だと思っています。

寄進や布施に頼って自己の生物性を維持している人たちが、俗世の問題解決を提示できるとは思われません。せいぜいが気の持ち方を説くくらいですから、「Say」(もうない雑誌なのかな)の“高尚版”といったものになるでしょう。

これは、“職業政治家”や“職業革命家”にも言えることです。

結局は、生身性を捨てずに他者とともに自分の活動力で使って生きている諸個人が目覚めることが、問題の根源を看破し、その解決をもたらすことにつながると思っています。

 次へ  前へ

議論・雑談8掲示板へ



フォローアップ:



 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。