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(回答先: 女人禁制の不可解 投稿者 ぷち熟女 日時 2003 年 2 月 20 日 21:24:07)
ぷち熟女さんへ
ぷち熟女なんて名前だけでドキドキしてしまうんじゃなぁ、幾つになっても男は。
そんなもんじゃから、ご指摘の通り修行にならんわな。男はそうした意味で女性が怖かったんじゃろうな、軟弱なことじゃが(人のことは言えんが)。
妄想を振り切って、振り切って山で修行するんかのう。体に毒じゃわなぁ。
ワシも若い頃、千日回峰とかに憧れてな。しかしやらんで良かったわい。
古代ならいざ知らず、現代では徒労じゃと思うぞ。まぁやらんで偉そうなことは言えんけどな。人として生まれた以上、人としての生きること自体が修行になっとるでな、山にこもるのは現実逃避にしかならんわな。まぁ消極的な徳積みと言えるかも知れんが。その程度じゃて。その程度の輩がいろいろ迷信まじりで女人禁制を唱えたのじゃろうからかんべんしたっておくれのう。
キリスト教の牧師も妻帯しないことが立派さを示すような時代があったように聞いとるが、仏教にもあったわな。女性と体を重ねることなく性欲を抑制できるマインドコントロールに尊敬の念が集まったとも聞いとる。おたんこな話じゃて。人間の品性は高かったかも知れんが、知的水準はレベルが低かったんじゃろ。また、男尊女卑とする迷信もあったし、今だあるわな。近代神道では「霊主体従」という摂理を唱えておるが、これは日本太古より伝承される極めて重要な真理であって、その復興じゃぞ。(秀真伝じゃが…そんな摂理名として記載されとらんがな)「霊主体従」には男尊女卑に誤解されそうな点があって、古来からの教えがすたれ、仏教と混交して行く間に歪曲されたのではないかと思っておる。
この「霊主体従」がきちんと理解でき、日常生活に自然に折り込められる状況となれば、イエスが言うところの「燃やされる麦」とはならんじゃろうな。
初期仏教と言われる「阿含経」は、釈迦没後比較的早い時期に編纂されておるらしく、釈迦の生き様が彷彿とされるが、日本では小乗仏教として低く評価されておった。高く評価された大乗仏教群は実は、現代では、名も知れん求道者たちの集大成と考えられておるようじゃ。「五時教判で法華経が一番」と言って折伏する○○学会も根拠がむなしいわな。
その阿含経での釈迦は大したこと無いぞ。何の世界でもそうだわな、高名即偉大とは限らんて。しかし、当時では凄かったじゃろし、人間としても図抜けて霊性が高かったに違いなっかたじゃろうが、教えとしてはな。現代の凄まじいまでの情報量や多様性、混沌の有様から、現代の普通の人でも釈迦の修行の何十倍もしとる換算になるじゃろなぁ。わしは霊性が低いでのう、夢の途中じゃが、それでも釈迦の教え(あるのか?)なんぞ大したことないと思うくらいじゃて。惑わされてあかんぞアカデミニズムの権威に。
ぷち熟女さんも、あの僅かな行数でも、釈迦よりあんたの方が真理沿って偉いとワシは感じるぞ。
何度も言うように、霊界が我々の本来の住まい。輪廻転生を繰り返しながも、澄み清まる修行としてこの世に生を頂いたわけじゃから、光を目指す方向性を誤らないことを前提として、この世の楽しみ、苦しみを享受しながらも他者と自分の幸せの両立を願いながら、精一杯生き抜くことが原点じゃぞ。この混沌の世は学びを深めるチャンスであるが、今の混沌ぶりは修行の最終試験も近いかも知れんからのう。女を磨いてくれよのう。