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第24回「銀行危機の原因は経営リスク?――中堅行員は新時代の準備を」(その1)
(アローコンサルティング事務所 代表 箭内 昇氏)
銀行界が風雲急を告げているせいか、最近セミナーなどで講演する機会が増えている。その中で、学生や研究機関など、銀行業と縁の薄い受講者からよく出る質問が「なぜ銀行の経営者のような優秀なエリートが経営に失敗し、いつまでたっても再生できないのですか」というものだ。
最初のころはブラック・ユーモアかと思い、瞬間的に答えに窮した。しかし、質問者は真顔だし、その後も同じ質問が続いた。最近では親類縁者まで聞いてくる。実は、これこそが不良債権問題や銀行問題の核心である。何のしがらみもない外部の人間の素朴な疑問こそ、真実の扉を開ける鍵を握っている。
一方、先般来日したジョン・リード前シティグループ会長は、日本の銀行の問題はマネジリアル・リスク(経営リスク)であると喝破した。80年代半ばと90年代初めと2度もの危機を切り抜けて銀行を復活させた経営のプロから見れば、わが国銀行危機の根本原因が経営不在にあることはあまりにも明白なことなのだろう。
調整型エリートの陥穽
なぜ、優秀なエリートが失敗を重ねるのか。一言でいえば、優秀であることと経営能力があることとはまったく別ものということだ。
その第一は、「優秀さ」の中身である。筆者も銀行時代に中枢部門を歩き、多くの他行経営者やMOF担仲間を見てきた。共通するのは「大学時代の成績がよい」「頭がよい」ということだ。ほとんど東大卒であり、なかでも法学部卒が多い。
しかし、東大法学部の卒業生が最も得意とするのは、調整能力である。筆者には、学生時代の忘れられない講義がある。ある教授が、法律とは結局世の中の対立する利害を調整するもので「A、Bそれぞれの結論をとったときの問題点をできるだけたくさんならべ、じっと比べてより妥当と思われる方を選択する。そして両者の利害を相殺して調整する。これが衡平の原則だ」というのだ。別の教授からは、リーガル・マインドとは結局バランス感覚だという趣旨の講義も受けた。
その昔は公務員試験が免除されていたように、東大法学部は明治時代に官僚を作る目的で作られ、そもそも保守的人材を輩出する学部である。したがって、卒業生は役所でもっとも活躍できる。さまざまな利害を調整し、三方一両損的な「落としどころ」を見出す能力は役人生活を重ねるほど磨きがかかる。
問題は、銀行も同じような人材を育成、重用したことだ。経営のブレーンである企画部や人事部には官僚的才能を持った「優秀な」人材が集まり、各本部から出された施策のでこぼこをならしながら経営計画や人事計画を策定する。その計画は全体のバランスは取れているものの、チャレンジングなものはない。
銀行局とMOF担の関係は、バランス調整の極地だ。ある業態が新商品を要請すれば、ライバルの業態は「バーター」(見返り)を要求する。そこで銀行局が行司役に入って利害を調整する。銀行局の官僚もMOF担も、それぞれの上司に「諸条件を総合的に勘案すれば、この結論でやむなし」という稟議書をあげる。この稟議書づくりこそが「リーガル・マインド」の結晶であり、「優秀なエリート」の真骨頂なのだ。
こうした能力は右肩上がりの時代や平時には威力を発揮するが、現在のような乱世では逆に大きな足かせになる。バランスを考慮するあまり、取捨選択やリスクテークができないからである。大手銀行がバブルの崩壊で立ち往生し、抜本的な戦略が打ち出せなかった最大の要因は、MOF担上がりの「優秀な」経営者が多かったことだと確信している。
長銀とシティの頭取ポストの値段
これに関連して思い出すのが、頭取の職務サイズだ。バブル前の84年頃、長銀は人事改革の一環として、米国の人事コンサルタント会社であるヘイ社をリテインした。筆者が実質リーダーとなり、プロジェクトの一つとして、頭取以下すべての管理職の職務サイズを一定の基準表を使って点数化するという作業を行った。
このヘイ社の基準表は、当時シティなど世界の有力銀行のほとんどが採用しており、いわば世界基準であった。長銀で500点のポストは、シティの500点のポストと同等の職務サイズというわけだ。
基準表は(1)知識レベルの高さ(2)問題解決力の深さ(3)経営へのインパクトの大きさの3要素で構成され、それぞれの項目がさらに細かく分かれ、合計7項目の合計点数で決まる仕組みである。
頭取の職務サイズも、本人インタビューによる職務分析などを経てコンサルタントが最終決定した。しかし、彼らによれば、その点数はシティやチェース頭取より2ランク程度低いというのだ。
たとえば基準表の「問題解決力の深さ」の中に「思考の挑戦度」という1項目があり、最小点数である「反復的」のレベルから順次「類型的」「探査的」「適応的」と進み、「未知的」のレベルが最高点になっている。
コンサルタントは、護送船団経営の日本の銀行頭取には「未知的」な「思考の挑戦度」に該当する職務はないと断言したのである。「アメリカの銀行は経営を失敗すれば倒産するが、日本の銀行は潰さないでしょう」というのだ。
当時はそんなものかと漠然と受け止めていたが、その後90年代に入り、日米銀行が鏡に映した放物線のように繁栄と凋落に分かれていったとき、残念ながら彼の主張は正論だったと認めざるを得なかった。
わが国銀行のエリート銀行員は「類型的」や「探査的」レベルの思考挑戦度であれば高い能力を発揮できるが、それ以上のレベルになると経験不足のため思考停止に陥ってしまうのだ。
つじつまあわせと先送りの才能
銀行エリートの「優秀さ」が災いするケースはほかにもある。彼らは、組織防衛という暗い仕事にも高い能力をフルに発揮するからだ。
大手銀行は80年代以降、実質的な粉飾決算を重ねてきた。商品勘定で含み損を抱えた国債を簿価で証券会社に売却し、同時に投資勘定で同額買い戻したり(実質勘定の付け替え。含み損は表面化せず)、売りと買いの先物を両建てで契約し、期末近くに利益が出るほうだけを実行するなど、実に多様な合法的な利益かさ上げ策を開発してきた。
不良債権の隠蔽、先送りも同様で、スワップを使った不良債権の一時疎開や、追加融資でプロジェクトを膨らませて不良債権をまぶすなど、高度なテクニックを駆使した。
先週の三井住友銀行によるあおぞら銀行買収とみずほグループ再編のニュースにも驚いた。これまでもメガバンクは合併会計の抜け穴などを利用して資本増強と配当原資確保の秘策を繰り返してきたが、破綻銀行に注入された公的資金や関係会社の配当に目をつけるとは、あらためて「優秀さ」に脱帽だ。
こうした才能も官僚と共通する。財務省は、今年度当初予算策定の際、特別会計で一般財源不足を補うというウルトラC を使って「国債発行30兆円以内」という小泉首相の公約維持を助けた。主計局の官僚の才能は、こうした裏技を駆使して政治家やほかの官庁を翻弄するところで本領を発揮する。
だが、銀行も財務省もウルトラCを重ねていくうちに、経理や予算の仕組みがきわめて複雑になっていく。外部からは手の出せないブラックボックス化し、それが彼らの既得権にもなっていく。しかし、所詮は本質から目をそらす問題先送りであり、長い間には当然膿がたまる。これも、今日の不良債権問題や財政赤字問題の大きな要因だ。
能力発揮を阻害する三つ子の魂
銀行エリートが経営に失敗した第二の要因は、感性の問題である。優れた能力は鋭い感性を伴って始めて発揮される。人間は経験の動物であり、その意味では今の銀行経営者は「不幸な」経験しかしてこなかった。
筆者は入行後しばらくの間、銀行床の間時代を経験した。盆暮れになると取引先の財務課長が社宅に高価な贈答品を届けに来たし、地方の取引先を訪問したときは一介の担当者のために宴席を設けてくれた。
こうしたおいしい経験をすると、頭では二度と金融逼迫は来ないと認識していても、心の隅では「あの良き時代」の残り火が焼け木杭のようにいつまでもくすぶってしまうのだ。
まして、60年代に入行した現在の銀行経営者であれば、「あの良き時代」が骨の髄まで染み込み、本能的に時代の変化に目をつぶってしまうのも無理はない。
不良債権問題も同じだ。たとえば、住友銀行は76年の安宅産業破綻の際、当時の磯田副頭取以下が見事な処理を行い、これがその後のスーパーバンクへの出発点となった。住友銀行はこのとき処理し切れなかった山林などの不良物件を塩漬けにしていたが、10年後にバブルの波が到来するとゴルフ場用地として大きな収益をあげた。
バブル時の巽頭取も現在の西川頭取もこの案件の直接担当者であったと聞く。ほかの銀行にも東京湾横断道路がらみのプロジェクトなど類似の案件がたくさんある。こうした「成功体験」は三つ子の魂であり「いつか神風が」という思いを消しきれず、処理を先延ばしにするのだ。
危機感に対する感性の問題もある。宇佐美洵三菱銀行頭取、堀田庄三住友頭取など60年代の頭取たちは入行直後に昭和金融恐慌を目の当たりに見た。中村俊男三菱銀行頭取や松沢卓二富士銀行頭取など70年代の頭取たちも、終戦直後の銀行危機を体験した。筆者の知っている限りでも、彼らは潜在的危機感を持ち、貪欲な成長意欲を持っていた。銀行局と激しく対立するシーンもあった。
しかし、バブル時以降の頭取たちは戦後入行者ばかりで、高度成長時代の成功体験はあるが、危機や失敗の体験はない。MOF担出身の頭取が急増したのも80年代からであり、当局依存の体質が強まった。この経営者の希薄な危機感が、今でも不良債権処理が当局依存で横並びでになっている大きな要因であろう。
スカートを踏みつける人事のくびき
銀行エリートが経営に失敗した第三の要因は、人事のくびきである。いくら能力を発揮して前に進もうとしても、スカートの裾を踏みつける大きな足があるのだ。
銀行は役所同様の強烈な年功序列社会で、昇進するほど先輩の圧力を受ける。筆者も97年に取締役に就任したとき、秘書室から関連会社に転出している副頭取以上の役員経験者にも挨拶回りをするように指示されて驚いたことがある。
また、長銀では96年ごろ、リストラの一環として関連会社の役員に定年制を導入したことがあったが、当時の会長、頭取が足取り重く先輩を説得して回っていたことを思い出す。
長銀より歴史の古い都市銀行などでは、もっと厳格だろう。彼らOBは隠然とした人事権を持っているからだ。頭取のもとには、OBから「あいつはけしからん奴だ」などの意見がたくさん舞い込み、これを無視することは難しい。
そして、頭取は自分を指名してくれた先輩には絶対頭が上がらない。メガバンクの中には、いまだにバブル時代の頭取が現職の頭取を訪問するところがあるという。無言の圧力だ。
OBの重圧は、関連会社にはっきりと現れる。メガバンクが誕生しても旧銀行の関係会社の再編はほとんど手付かずだ。役員OBが既得権を離さないからである。驚いたことに30年以上前に合併した旧第一勧銀でも、いまだに旧第一銀行と旧勧銀の関係会社が並存している。
大手銀行がメーン取引先に引導が渡せないのも、突き詰めれば人事問題だ。銀行は長年にわたって役員や行員だけでなく子弟まで送り込み、濃密な人的関係が構築されている。また、金融支援などで延命させたにもかかわらず、ここで倒産させれば、当時の経営者は代表訴訟されるおそれもある。
要は、銀行とメーン取引先はいわば一心同体であり、頭取は先輩を含めた銀行自体を自己否定するような大胆な処理はできるはずもないのである。
こうした風土の中では、仮に頭取たちが危機感を持って大胆な経営戦略を実行しようとしても、身動きが取れないというのが現実だ。
経営リセットと新時代への準備
かくして「優秀な」銀行経営者は立ち往生しているわけだが、その背景に生臭い人間のしがらみがある以上、もはや経営のリセットしか銀行再生の道はないだろう。
竹中改革も金融再生プログラム作業工程表が発表され、いよいよ銀行改革も大詰めを迎えた。この金融再生プログラムを着実に実施していけば、かならず銀行経営者の問題に行き当たるはずである。しかし、追い詰められた銀行経営者は、「優秀」であるがゆえに英知を絞って国有化を回避し、問題先送りと弥縫策を続けるであろう。これこそが究極のマネジリアル・リスクだ。
今の大手銀行は不良債権負担、巨額の株式と国債保有、生保との資本持合、内部組織のメルトダウンなどの問題を抱え、まさに時限爆弾を抱えたリスクの塊である。この塊が爆発しないうちに、早急にマネジリアル・リスクを排除しなければならない。もちろん、経営陣が一新しても、とりあえずの破滅を回避するに過ぎず、再生の道は極めて厳しい。40歳代の中堅行員諸兄は、飲み屋でくだを巻いている暇などない。新時代はすぐそこに来ている。急いで準備を進めるべきだ。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/colCh.cfm?i=t_yanai24