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ちょっと、太田龍の力を借りる。
借りているだけで、かぶれているわけではないのでご安心ください。
特に、まさちゃん、読んで考えてみてください。
肯定でも、否定でもいいから。
論証できれば、してみてください。
◆ 第一章 西洋哲学の光と闇 〜西洋思想概説〜 (週刊日本新聞)
http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/889.html
投稿者 中央線 日時 2003 年 3 月 08 日 18:53:04:
より、
DMNLOGY.TXT
◆ 第一章
西洋哲学の光と闇
〜西洋思想概説〜
▲ 一、
Information Age
この英語を、「情報時代」と訳して良いのか。
良くても悪くても、既に、それは日本語の中に入り込んでしまって居るが。
Informは、知らせる、通知する、通告する、
の意味だと言う。
つまり、既に何者かのところに集積された知識の中から、その一部を、必要に応じて、誰かに、知らせること、
これが、インフォメーションであろう。
近頃、
「インフォメーション・コーナー」、
などの表示が見受けられる。
ここに、列車の発着時刻や発車の事情をお客に案内する係りが詰めて居る。
つまり、未知のことを研究し、探求する、
或いは、発見する、発明する、
そんな働きは含まれない。
通告する、とは、同時に、
その「インフォメーション」によって、誰かを動かすことを意図して居る。
「唯一の実行可能な解答は、すべての人間の頭脳を、単一の巨大な超頭脳と連結することである。それは、進化途上にあるすべて生物種であり、そしてまたこの超頭脳は、単一の超存在に結び付けられねばならない。一つの世界頭脳の中に、人類の心を吸収するのである」(ニューエイジ派の著作「水瓶座$アクエリアス$の神々」、F・スプリングマイヤー著イルミナティU一八一頁より引用)、
とは、「西洋」のある部分の本音であろう。
超頭脳$スーパー・ブレイン$、
超存在$スーパー・ビーイング$、
世界頭脳$ワールド・ブレイン$、
こうした用語が、単なる思い付きの放言でないとすれば、非常に不気味だ。
一九七〇年に、ハリウッドは、究極のコンピュータが、すべての人間の心を制圧してゆく過程を描いた、「巨人たち$Colossus$〜ザ・フォービン計画」と言う映画を公開し、たのだそうだ。私は見て居ないが。
ハリウッドが、冗談半分に、こんな作品を制作するとは思えない。
一九八四年十一月九日から十一日迄、
「世界頭脳$ワールド・ブレイン$、我々の次の進化の段階に向かって」、
と言う学術討論会が開かれ、ロバート・マラー【闇の世界権力の頂点に立つ悪魔主義集団、イルミナティの一員、元国連事務次長、コスタリカに建設中の国連平和大学に参画)】が、
「我々は、人々の心と魂を結び付ける、単一の世界的な心と魂の形成に着手しつつある」、
と述べたそうだ。
つまり「世界頭脳」とは、暇人の空想ではなくて、ある種の世界の権威筋によって、れっきとした現実的な行動目標とされて居るらしい。
▲ 二、
「素晴らしき新世界」(オルダス・ハックスレイ、一九三二年、日本語訳、講談社文庫)は、「西洋思潮」の、少なくとも一つの有力な系列を代表する。
この未来世界では、男女の結婚、家庭、出産、育児などは存在しない。
新しい子供は工場(人工孵化、条件反射育成所)で製造される(一日八メートル移動し、二百六十七日目に子供が壜から出る。
そして人間製品は、上中下、下の下$デルタ$、更にその下$エプシロン$と、五つの階級に分けられる。
女の一部から卵巣が切り取られ、
男の一部から精子が採取され、
この「原材料」から、最上層の支配階級たるべき子供たちと、奴隷となるべき子供たちが、加工されるのである。
もちろんこの人間製造工場を管理する職員は、上$アルファ$階級から選ばれる。
日本人にはこんな考えは馴染めない。
けれども、ここには、「西洋哲学」の本音が、かなり明け透けに表現されて居るのではないか。
上$アルファ$、中$ベータ$、下$ガンマ$、
この三階級は、「準人間」の中に入るかも知れないが、その下(デルタ、エプシロン)は、「人間外」、と言う印象だ(オルダス・ハックスレイは、ギリシャ語のアルファベットを使うが、ローマ字ではABCDE、である)。
「世界頭脳」に「進化」してゆくべき、真の意味の統治者(「人間」の名に値する)は、「アルファ」の更に上に君臨して居る。
一体、どこから、かくの如き不気味な発想が出て来るのであろう。
日本人は、西洋の文物を夢中になって採り入れて百三、四十年になるが、未だに、その中核に位置すると思われる、
「一神教」と、
「西洋哲学」との正体が腑に落ちて居ない。
一神教の始まりはユダヤ教、
西洋哲学の代表は、万学の祖、ないし万学の王、と賞賛される、古代ギリシャのアリストテレス、と聞く。
彼は、形而上学、自然学、倫理学、政治学、美学などの膨大な著作を残して居る。
しかし彼の理論体系は明快で、次の図で示すことが出来る。
★図DMN_01A.JBW
Aの「奴隷」は、非人間化された半分人間、ないし家畜人、と見なされる。
@の「自由人」のみが、「人間理性」を保有して居り、自己の目的を定め得る。
AからD迄は、その材料である。つまり、固有の目的を持たず、自由意思も有しない。
▲ 三、
しかしそれでは、「神」はどうなるのか。
アリストテレスの哲学体系に、「神」の居る場所は確保されて居るのであろうか。
これが実は、「西洋哲学」なるものの最大難問なのだ。
形而上学【これは、メタフィジクス、直訳すれば、超自然学、となる】は神学の代用品(模造品)として使うことは出来るかも知れないが、ここに、本当のところ、神は存在しないのではなかろうか。
神とは、天地を、かくの如く創造されたお方のことである。
前節の図の右側が自然学、左側が超自然学(形而上学)に相当する。
神は必要ない。
しかしそれでは無神論か、と言うと、そうでもない。
唯物論でもない。
この体系の起動力は、「自由人」である。
つまり、アリストテレスの徒にとって、解決されて居ない(従って解決されるべき)唯一の問題は、
「自由人の存在根拠(自由人がいかにして生成して来るか、と言い換えても良い)」である。
それはまた、自由人の自由なる力、その活動範囲を、いかにして拡大し得るか、そしてそれによって、「自由人」がどの様にして神に近付いてゆくべきか、
との問題でもある。
ここに「神」と呼ばれる存在は、
全知全能にして、
万物の主、
と言ったものと定義して置く。
だが、これは、率直に言って、非常に難しい話ではなかろうか。
昔風の日本人は、こんな風に考えることも出来ないし、そんな「哲学」を理解することも出来ない。
精々、「白昼夢」、「妄想」の類としか思えないであろう。
けれども、西洋人の一部にとっては、これは紛れもない本気だ。
弱肉強食、優勝劣敗、
これは単なる空念仏ではない。
ホッブスの有名な「万人の万人に対する闘争」の命題は、深く、西洋文明の土壌に根を張って居る。
アリストテレスの哲学に於ける、
自由人の力の拡大は、
同時に、それ以外の人間と自然にとっての、自由の喪失、隷従の増強を意味する。
我々日本人は、かつては、
このようなものを「自由」とは言わなかったし、「自由人」とも見ない。
それではかくの如き人間とかくの如き傾向をどう呼んだらよいのであろう。
▲ 四、
「神は機械や化学的薬品や大衆の幸福とは両立しないのだ。人はどちらかを選ばなくてはならぬ。我が文明は機械と薬品と幸福とを選んだのだ」(松村訳「すばらしき新世界」、講談社文庫、二七一頁)、
と、ムスタファ・モンド【新世界の西洋駐在総統、なお、この「新世界」は、十人の「総統」によって統治されることになって居る】は、野蛮人$サヴェジ$(未来の新世界に迷い込んだ二十世紀風の英国人男性)に言って聞かせる。
ここには、
人工とは(そして、人工物の集積としての「文明」も)神から離れる過程である、
との命題が示されて居る。
神から離れるのみでない、
両立しない、と言うのであるから、やがて、人工(文明)は、神を排除しなければならない。
神を殺害しなければならない。
これは、戦慄すべき事件である筈だが。
しかし、神の除去と神の殺害は如何にして可能か。
アリストテレスの「論理学」がその方法を示した。
有名な「同一律(在るものは在る)」、「排中律(在るかないかのいずれか)」、「矛盾律(在り、且つ、在らぬことは出来ない)」である。
米国の学者ウィルソン・ブライアン・キイは、
アリストテレスは、人間の言語機能を右の三つの基本法則によって記述した。この言語システムは、二千年以上に亘って、西欧世界の殆どすべての言語文化の中に浸透した、
アルフレッド・コージブスキーは、主著「科学と正気」(一九三三年)の中で、アリストテレス的構造が西洋文明を如何に原始的、拘束的、破壊的な言語論理のシステムの中に閉じ込めて来たかを検討して居る、
と述べた(リブロポート刊「メディアレイプ」一五八〜九頁)。
私は、コージブスキーについて、生憎なにも知らないが、彼は、「ソビエト科学百科全書」の中で、手厳しく糾弾されて居るのだそうだ。
「アリストテレス以降、人間は自分の住む世界全体について言葉による目録を作成し、すべてを説明しきることができるようになった。それは彼が思考した世界だ」(前出、一八五頁)、
とのキイ教授の言葉は核心を突いて居る。
デカルトの「我、考える故に、我在り」、
との、超有名な西洋哲学の命題が、直ちに連想される。
「神でさえ言葉によって定義された」(前出、一八七頁)。
これで万事上手くゆく。
つまり、筆の一走りで、考え、且つ言葉に記録する人間は、神を如何様にも、己れの都合に合わせて料理出来る(神を人工物の一つとして製作する)のである。