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2002年12月16日
言語植民地の悲劇−「英語支配」が世界を沈める
フィリピンでは多数の子供が登校拒否状態だそうです。授業についていけないのが原因という事ですが、「フィリピンの子供は頭が悪いから低学力?」なんて思ったらとんでもない。もし彼らが日本人と同じ条件で、自国語で授業が受けられるとしたら、相当な学力水準になっているはずです。
というのも、この国では基本的に理科や数学等、英語と無縁の科目で、教師が英語を使って授業するのだそうです。そして英語についていけない子供は、自動的に全科目で「落ちこぼれ」になる仕組みという訳です。つまり、国の発展に不可欠な実学教育を「神聖なる宗主国語」を教え込むダシにされているのだから、発展が遅れるのは当然ですね。
これは結局アメリカの植民地だった時代からの慣習です。彼らは学校で英語を強制され、自分達のタガログ語は一切排除されていたそうです。そして独立後もアメリカの強い影響力に縛られ、アジアの発展から長く取り残されてきましたが、そうした支配の鎖の重要な要素がこの英語偏重だった訳です。
こうした悲惨な現実を知らない人を騙して「東南アジアでは誰でも英語がペラペラだから、みんなが英語を使って国際化が進んでいる」なんて礼賛している人達は、事実を指摘されると色をなして怒ります。
「フィリピンは英語を使える人が世界に出て、外貨を稼いで、国の経済を支えているんだ」・・・って、傍から見てても全然自慢にもなりゃしない。力のある人が海外に流れるのを普通「人材の空洞化」って言いますからね。
彼らが外国に行くのも、国内経済が悲惨だったから。大半が理系で落ちこぼれて、残った能力ある人が流出すれば、国内経済が悲惨になるのは当然です。タイやマレーシアが発展する中でフィリピンが取り残されるのは当然ですよ。
だいたい、「世界に出て」なんたって、要するにアメリカで、日本で英語を話せたって使い物になりゃしないから「ジャパ行きさん」なんて言って悲惨の代名詞みたいになる。 そんなのを絶賛して「英語にケチをつける奴は許せない」なんてがなり立ててるのは、まさに「没落の勧め」ですな。彼らは他国民の悲惨がよっぽど嬉しいらしい。
勿論、これはフィリピンだけに限った話じゃありません。
98年頃、ユニセフが「教育の権利」をテーマにした報告書を出しました。ここで「教育を受けられない」子供が一億人、非識字の子供が八億人いる等、指摘されているのですが、問題は教育は受けても、その教育が「まとも」じゃないが故に「成果」が上がらない、多くの子供たちの存在です。
特に、アフリカ等で旧宗主国の言語で教育を受けている子供が、勉強に支障を来して中途退学する例が多いと指摘されています。それに対して、南米先住民の子供に日常言語での教育が成果を上げている例を上げ、母言語での教育の重要性が指摘されています。
日本だって同じようなものです。大学では、やはり英語と無縁の科目で、無能な年功序列教授が英語の原書講読とかやったりして、結局本来の専門分野を「神聖なる国際語」を教え込むダシに使ったりしてるんだから。そのために入試だって英語が全科目で幅を効かす訳です。
日本の大学教育が最低なのも当然です。
日本で「英語が通じない」と言われて、英語に熱を上げる羽目になったのがバブル期。その「成果」とともに、日本経済の窮状は深刻の度を増していきました。
「本場の教師を雇って会話重視にすれば、みんな英語大好きになって、簡単に英語をマスターできる」という、嘘の見え透いた宣伝を楯に、ALTなる「本場の英語を喋る」だけの外国人を大量に高給採用して全国の高校に送り込み、「ゆとり教育」とか言って理科などが削減される中、英語のみが時数を増やし・・・。
膨大な単語を要求する暗記科目にならざるを得ない英語が、どうしたって生徒を圧迫するのは当然です。「みんな英語大好き」どころか「勉強」そのものを拒否する生徒を大量に生み出す羽目になったではありませんか。
そもそも、こういう事を始めた動機・・・何りために英語が通じないと困るか・・・と言えば「アメリカ企業が売り込みできない」と、最初からその目的が「外国利益に対する奉仕」なんだから、日本人の利益に沿わない結果が出るのは当たり前なんです。
明治11年、新潟県農事試験場に農学者・関澄蔵が赴任しました。当時の「試験場」は農学者を養成して県内外に派遣する高等教育機関。関は教授として試験場を整備し、規則を確立して「新潟勧農場」として体制を確立しました。
当時、「学術書」と言えば欧米からの輸入しか無い当時の事。高等教育は全て原書で行われる時代のが当然の時代でした。ところが関は「国語で専門の学を教授す」と宣言。必要な専門書を自ら翻訳し、14教科もの科目を翻訳書によって教授し、多くの優秀な専門家を養成したのです。
そして多くの日本人学者が活躍し、世界中の学術書が翻訳されている現在、大学では、馬鹿教授の言語ブランド志向で「原書を読むのが学問だ」などと、学生は購読授業を強要され「わからなければ学生が悪い」と馬鹿教授が開き直る。研究に注ぐべき研究者の貴重な労力を「世界に認めてもらうため」とか言って、自分の論文を英訳するために浪費させる。まさしく「愚行の極み」。「大学の質の悪さ」の最大の証明です。
明治の先人が、いかにして欧米に追いついたのか。「努力と根性」だけて可能な訳はありません。その理由が、関氏の事績を見ると実によく解る。まさに「進歩を主導する者の理念」がここにある。今の馬鹿教授と、なんという落差か・・・。
「自国語で教えてこそ、学生は理解できる」「学生が理解できるような授業でなければならない」。それは当たり前の良識です。その当たり前の良識すら忘れられている現在。日本が没落するのはまさにこういう所からでしょう。
「外国語偏重教育」というのは、フィリピンもアフリカも日本も、本質的には同様です。結局、いまだ続く「隠れた植民地支配」の深刻な害毒なのです。せっかく独立して、自分達で政策を決める自由を得たというのに、その自由を国民の利益に使おう・・・という発想が無い。
代わりに特権階級が「自分達の権力」を維持してきた古い制度と、それを認めてきた外国との古い関係・・・。それがいろんな途上国を低迷させてきました。そんな既得権益構造を維持する事しか考えない旧守派集団・・・、それが英語偏重論者の本質です。
彼らの議論は、パターンはどれも同じです。「今の社会」のシステムの枠組みの中で「英語は重要」というのをひたすら強調すればいいと思っている。それを「どうするか」の議論を頑迷に拒否し、「それに乗るか反るか」の非主体的な二者択一を迫るアナログ思考な脅迫に固執する。これが彼らの議論です。そして「英語」というものが持つ「既得権」以外の現実をけして認めず、事実を指摘されて恥をかく・・・。
しかも、自分が自身の利益のためにしか議論出来ないから、反対派に対しても、同じようにしか見えない。だから必ず「お前は英語を使えないだろう。だから僻んでそんな事を言うんだ」と言い張る。個人の立場を超えた「社会全体を向上させる方法論」などというものを、想像すら出来ない。「立場の違う者が自己利益を主張し合うのが議論だ」などと真顔で言うのですから、処置無しです。
最近のアメリカの「一人勝ち」で、英語絶対主義者達は過剰な自信を肥大化させています。彼等の言い分を真に受けて「理想の英語教育」を受けた大学生は、現実には「英語だけ出来ても使い物にならない」と、就職にありつけない状態だというのに。
中国との安値競争に晒されて自信を無くしてきているマレーシアは、「マレー語教育重視政策」を撤回して英語強制教育への退行を言い出して、かなりの反発を買っています。元々中国語などの他言語ネイティブへのマレー語強制を呼びかけて「うまくいかなかった」のがその「失敗」の本質です。つくづく「言語統一」の好きなマレー政府で、マレー語での統一が駄目だったから英語で・・・ってって所でしょうが、何だかねぇ・・・。
理由づけが「マレー語で育ったマレー人大学生がサービス業で、英語が出来ない事を理由に排斥された」と言うのですが、輸出産業ならいざ知らず、人口の大部分を占めるマレー人への対応が最重要な筈のサービス業で?
マレーの経済を担う多くは華僑が支配しているのが実態ですから、マレー人学生を排斥するなら彼等を抜きに考えられませんが、今まで彼等に圧力をかけてきたのがマレー語重視の「プミプトラ政策」。要するにこれに圧力をかけるための華僑資本による「あてつけ排斥」と見るのが正解でしょう。
実際には華僑はマレー語重視をやってきた政府系学校とは別に「華人学校」で子弟を育てていて、今回の英語重視転換発言に一番反発しているのが、英語強制で自分達の中国語中心教育を規制される華僑たちなのですから。
現実に今までのマレーシアの発展を支えていたのが、人口の多くを占めるマレー人が、自分達の言葉でまともな教育を受けられるようになった事が多く貢献しているのは間違い無い筈なんですけどね。この英語中心教育が現実になって、肝心の理科や数学を英語で教える・・・ってんで多くのマレー人が落ちこぼれる事態になった時、マレーシアがどうなるのか・・・。そうなっても結局、欧米主導の国際メディアによって「マハティールが民族主義でアメリカに逆らった報いだ」なんて事になるんだろーなぁ・・・。
http://homepage3.nifty.com/tngari/eigo_c.htm