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「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」。1938年1月16日、近衛内閣が発した有名な声明の冒頭である。昨年秋から今日にいたる、日本政府の北朝鮮との交渉経過を見ると、ついこの「対手とせず」声明が頭を掠める。
近衛声明は、前年7月の盧溝橋事件に始まった日中両軍の戦闘がとめどなく拡大していく中で、強硬な国内世論と政府内の強硬派に圧されて出された。以後、日本は戦う相手側と一切交渉のない、泥沼の全面戦争に陥る。それまでは外交チャンネルもあり、和平工作もあったのに、自ら選択肢を狭め、どこまでも突き進むしかなくなってしまった。
交渉の相手を冷静に観察し、その言うところを粘り強く聞き、その上で国民全体の利益に適うよう、判断を下すというのが本来の外交だろう。日本は他国、他民族との交渉が極端に苦手なようだ。嫌な相手はできるだけ見ないようにし、言うことには耳をふさぎ、ひたすら自分に都合のよい願望だけで相手の像をつくり、それに向かってただ突き進む。
満州事変(1931)国際連盟脱退(1933)から真珠湾(1941)にいたるまで、日本外交は結局「対手にせず」の繰り返しだったのではないか。戦う相手は「鬼畜」であり、研究はもとより言葉を学ぶことすら禁じられた。驚くほどの視野の狭さだ。そしてその視野の狭さが、相手のみならず日本自身の犠牲を巨大にし、国を滅ぼしたのである。
昨年9月の日朝首脳会談で突破口を開いたかに見えた両国関係は、10月末に開かれた正常化交渉1回きりで、頓挫してしまった。次回交渉の日程だけでも決めたい、という北朝鮮側を日本側は突き放した。世論はその強硬策を支持した。
なぜせっかく開いた扉を閉ざしてしまったのか、不可解だ。たとえ悪口、非難の応酬だけであっても、その場があること自体に意味がある。冷戦時代、国連安保理は、度々のソ連の「ニエット(ノー)」で機能不全と言われながら、その席にソ連が着いていることで、最低限の平和の保障の場となっていた。
「相手は経済で困窮しているのだから、少々無理を言っても必ず折れてくる」。これが日本政府の考えのようであり、多くのマスコミもそれに同調した。しかしその後北は交渉に一切応じなくなり、安保協議も開かれていない。北は交渉の対象を米国に絞り、再び危険な瀬戸際政策を取り始めたようだ。ウラン濃縮施設の建設を認めたことに始まり、KEDOの石油供給停止、北の核開発再開宣言とIAEAの監視カメラ撤去要請――と状況はスパイラル状に悪化している。
こうした展開には、日本にも責任がある。日朝平壌宣言では「核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、解決を図ることの必要性」を確認し、金正日国防委員長は「米国との対話を行なう用意があることを米国側に伝えてほしい」と小泉首相に述べた。対話の仲介を要請したのだ。
しかし、日本は米国への仲介どころか、拉致問題だけを議論し、北を責めたてた。拉致の議論、解決は重要だ。同時に拉致の悲劇をその数百万倍の悲劇の導火線にしてはならないことも言うをまたない。後世、日本はこのとき、東アジアの、ひいては世界の平和のためになしうる役割と責任を、「対手にせず」という態度で放棄した、と言われなければ幸いだ。強硬、蛮勇が大手を振るときが危ないのだ。