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引用元:http://www.foreignaffairsj.co.jp/intro/0301katz.htm
日本経済改革の政治的ジレンマ―失われた十年から改革の十年へ
Japan's Phoenix Economy
リチャード・カッツ/オリエンタル・エコノミスト・リポート誌シニアエディター
経済改革の真価は、改革措置が、経済成長の妨げとなっている供給面での非効率と需要の低迷という問題の解決に寄与するかどうかで判断すべきだ。だが人々が目にしているのは、もっとも再編が必要でない産業での再編、もっとも切実に改革が必要とされている領域での形ばかりの改革にすぎない。
だが日本人もついに「改革を断行しない限り、状況が改善されないこと」を確信し始めた。制度改革以外の選択肢のすべてを試み、それらが機能しないことがもはや明白になってきたからだ。失われた10年は改革が必要なことを納得するためのもので、次の10年は、実際に改革を実施するための時間となろう。
<目次>
・政治と経済がつくり出す障害 公開中
・崩壊する制度と先鋭化する社会対立 公開中
・自民党はいずれ分裂する
・危機を先送りする能力と問題解決能力の間
・小泉政権が改革を全うするには
・なぜ新たな不良債権が生まれるのか
・二重経済の暗部と個人消費の低迷
・「一歩前進二歩後退」の改革
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政治と経済がつくり出す障害
半世紀前、日本は戦争が残した瓦礫のなかから立ち上がり、その後数年間で見事な経済復興路線に乗り、世界を驚かせた。今回も同じことができるかもしれない。なかには、日本の今後は暗く、「混乱のなかで何とか生き延びるか、停滞したままに終わる」とみなす専門家もいる。日本の金融システムがメルトダウンするのではないかと懸念する者もいる。しかし、日本は改革を遂げ、再生するというシナリオがもっとも現実味がある。経済効率の悪い一連の産業を世界レベルの競争力を持つように引き上げることに成功して、シナリオが実現すれば、その後は年三%、あるいはそれを上回る成長率を実現できるだろう。
日本の今後に懐疑的な人々は、すでにこの国は十年もの時間を無為に費やしてきたと言う。であれば、なぜ今後の十年が、失われた十年とは違うと考えるかをここで指摘すべきだろう。「他の選択肢のすべてを試み、それが機能しないことがわかるまで、痛みを伴う制度改革を断行しようとする社会など存在しない」という真理にその答えを見いだすことができるはずだ。これまで長い間、超一流のエコノミストたちは、日本にはまだ選択肢がある、つまり、財政出動を行うか、マネーサプライを増やせばよい、と主張してきた。一九九九〜二〇〇〇年に少し景気が持ち直すかにみえたとき、多くの人々はこうした経済処方箋が効き目を持ちだしたと考えた。日本の政治家や市民たちは、こうした慰めにも似た幻想を好む傾向がある。だが日本人もいまや、「改革を断行しない限り、状況はますます悪化すること」を確信したようだ。(改革を掲げる)小泉純一郎が二〇〇一年に総理大臣になったのも、こうした認識がつくり出した政治的潮流を背景にしていた。問題に直面していることを認識すること。これが問題を解決する第一ステップなのだ。
日本人は自国が破綻するとは考えていない。それどころか、五〇〜六〇年代に経済的奇跡を達成したことをいまも自負している。問題は、そのような奇跡を呼び込んだ(時代遅れの)制度や慣行がいまも日本を支配していること、しかもこの制度に政治、経済的な拘束衣がまとわされているために、なかなか崩せないことだ。
しかし日本には、こうした拘束を取り払うことを切に願っている有能で野心的なビジネスマン、学者が数多くいるし、官僚のなかにさえ同じ考えを共有する者がいる。彼らは、新生日本をリードしていく力を持つ人々だ。欠けているのは、明快な経済プログラム、好ましい変化を呼び込むための連帯、及びその機軸となる組織や制度だ。時とともに、これらが形成されるのは間違いないが、問題は、この約束の地にたどり着くまでに、おそらくはあと十年ほどの時間がかかること、しかも、約束の地へと至る道のりがかなり険しいことだ。
なぜ十年かかるのか。機能麻痺に陥っている制度が日本社会に深く根ざしているため、すべてを適切なシステムに置き換えるには時間がかかるし、いまそこに適切なシステムが存在するとしても、躍動的な経済成長を達成するまでには五年はかかるからだ。しかも、改革によって適切なシステムを導入しようとすれば、数多くの既得権益や雇用が危機にさらされることになる。当然、改革を阻もうとする抵抗勢力の力も侮れない。
成長を阻む障害がこの国の政治経済という生地に深く織り込まれていること。これこそ日本のジレンマに他ならない。企業間の談合や保護主義的な規制が数十年にわたって実施されてきたことによって、生産性は低下し、いまやいくら努力しても、潜在的経済成長率は年一%程度に抑え込まれてしまっている。さらに悪いことに、膨大な規模の財政支出やゼロ金利政策にもかかわらず、潜在成長率を実現できていない。物価が基本的に高すぎ、実質家計所得が圧縮され、結果、消費者の購買力が高くないからだ。
九〇年代まで、日本の経済成長と構造的な欠陥は衝突することなく「共存」できたが、いまやこの限りではない。九七年春以降の平均年成長率は〇・三%というお寒い限りの数字にとどまっている。工業生産は九一年のピーク時に比べて一〇%も落ち込んでいるし、世界の生産や輸出に占める日本のシェアも、この一世紀以来、初めて減少へと転じている。
問題は、成長を阻む障害が一方で政治を支える支柱になってしまっていることだ。労働力の半数しか失業保険でカバーされていないこの国においては、談合、規制、信用のない相手への銀行融資などが、事実上の社会的安全弁とされている。こうしたやり方が、瀕死の企業や産業への延命措置とされ、必要のない雇用の維持のために用いられてきた。高い物価も、日本の効率的な産業から非効率な産業への所得再分配機能を果たしてきた。例えば、トヨタは窓ガラス、電子機器、鉄板部品の国内調達に高いコストを支払うことで(非効率な産業を支え)、そのコストは最終的に消費者が支払ってきた。さらに、自民党だけでなく、野党勢力も、成長を阻む障害をつくり出してしまっている一連の政治手法で、支持基盤の多くをつなぎ留めてきた。各政党の支持基盤は、改革によって恩恵を手にする勢力と、逆に大きく損なわれる勢力によって二分されている。こうした所得再分配的な構図はケイレツにもみられる。つまり、経済的に構造改革を必要としている部分が、まさに、政治的には手をつけがたい部分なのだ。
したがって日本の経済危機は、政府と企業双方の統治危機に他ならない。当然、経済再生のためには、制度の大幅な改革が必要になる。しかし現状では、改革主義者たちでさえ、何が改革であるのか、いまだに合意できていない。経済プログラムを定義し、知的コンセンサスを形成し、必要とされる組織的連帯を形成するだけでも、あと数年はかかるだろう。
崩壊する制度と先鋭化する社会対立
それでも、他に選択肢がない以上、改革がいずれ成功するのは間違いない。たしかに改革は状況を不安定化させるが、改革を断行しなければ、長期的にはより大きな不安定な状況に直面する。日本の年老いたエリートたちや大衆の多くは、できるものなら「泥縄式に生きながらえること」を望んでいる。しかし、若いエリートや大衆の一部が認識しつつあるように、泥縄式に生きながらえるのはもはや不可能だ。
日本の政治・経済を安定させられるかどうかのすべては、必要とされる最低限の経済成長を実現できるかどうかにかかっている。そうした成長がない限り、利益集団の緊張や対立が調整できなくなる。特定の利益団体の救済措置をとれば、どこかで傷つく組織が出てくる。「既得権益」層が改革の行く手を阻むだろうという声も耳にする。だが、こうした既得権益層がカール・マルクスの言う資本家階級としてまとまりをみせているわけではない。連日のように、新たな軋轢が生じている。農業従事者対都市生活者、企業対労働者、銀行対保険会社、若者対引退した人々、輸出産業対国内市場向け産業、生産性の高い企業対生産性の低い企業と、対立図式は数多く存在する。
成長がなければ、特定部門での不安定化が他の部門へと波及する。販売が停滞すれば、基本的に借金体質の日本企業は存亡の危機に直面し、その結果、管理不可能な銀行危機へと至る。経済ブームにあった当時はプラスに作用していた「終身雇用制」や「年功序列型賃金」も、企業の販売が落ち込むや、支えきれない重荷と化してしまった。企業側は労働(賃金)コストを削減しようと、九七年以降、二百六十万の雇用を減らすために段階的な人員削減策をとっている。ボーナス、年金、その他の福利厚生を提供しなければならないフルタイムの正社員を減らして、そうした面倒をみる必要のないパートタイマーに置き換えつつある。その結果、九七年以降、短期的な例外期はあったにせよ、労働者一人あたりの実質賃金は低下している。こうした賃金の低下が個人消費の低迷という現象を生み、その結果、企業収益の低下が、労働コストの削減分を上回ってしまっている。
赤字を垂れ流す企業や銀行を支えようと、日本銀行は九五年以降、オーバーナイト金利(コール・ローン)をゼロ近くにまで引き下げた。十年満期国債の金利も一%近くにまで低下した。しかしこうした超低金利政策ゆえに、保険会社や年金基金は、例えば、契約時に示した六%の予定利率にもとづく配当を支払えない状況に追い込まれつつある。二〇〇一年末までに、生命保険六社が倒産し、百を超える年金基金が解散に追い込まれた。さらに、低金利は年金生活者やその他の預金者の所得レベルも低下させており、その比率は可処分所得の五%に達する。消費者需要が横ばいをたどっているのも無理はない。
本来、恒久的な減税措置をつうじて、消費者の所得低下を相殺すべきだった。だが政府は、こうした年金生活者を支援するという名目の下、八九年に消費税を導入し、九七年には税率を三%から五%へと引き上げた。八九年の消費税導入によって自民党は参議院で過半数を失い、今もこの痛手から回復できていない。九七年の消費税引き上げは、九七年から九八年にかけてのリセッション(景気後退)の一因となり、九八年の参議院選挙でも自民党は大きな敗北を喫した。
経済成長がなければ、高齢社会に伴う緊張はますます大きくなる。現在のところ、日本社会の人口構成は勤労者四人に年金生活者一人という比率だが、二十五年もすれば、勤労者二人に年金生活者一人という比率になる。一方、都市生活者たちは、国内製品ではなく、輸入食品やアジアの途上国からの輸入衣類を安く購入している。こうした都市生活者の消費動向が、国内の農業従事者や非効率なメーカーの販売減となり、それらの産業は政治家に保護を求めている。自民党は、どのようにすれば都市生活者を離反させることなく、不可欠な支持基盤である農業票を確保できるだろうか、あるいは、どうすれば農業票を失うことなく、都市居住者を懐柔できるだろうか。
*全文はフォーリン・アフェアーズ日本語版でご覧になれます
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