現在地 HOME > 掲示板 ★阿修羅♪ |
|
Google検索をこねくりまわしていたら面白いものを見つけました。
半島人はハナニムという単一神を信仰していて、そのために他人の意見などを聞くことなく自我の主張のみに五月蝿く固執するそうだ。「和をもって貴しとなす」というわが国の考え方とは根本的に相容れないと言うことだ。
こういうことなら、半島人の得手勝手な自己主張は適当に聞き流してわが国はわが国の立場を守ってゆくのが肝要ということになる。「これだけうるさく言っているのだから何か根拠らしきものがあるのだろう」などとは決して考えないことが重要なのだ。
「言い出したら後に引けない」だけなのだ。馬鹿らしい。
文中の夫婦喧嘩のやり方なども結構面白い。
真面目に考えてやって大損をしたような気持ちだ。これからは半島人の主張は話半分、いや、白髪三千丈との表現もあるので「話三千分の一」と考えることにしよう。
以下は引用文
URLは
http://www.d-b.ne.jp/wahaha/kyokai/past-shuhou/shu2002.05.htm
キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)
2002年5月
2002/5/26
(「日岡だより」第21号)
北鮮家族、「神様に感謝」
中国・瀋陽の日本領事館で起きた北鮮一家5人の亡命希望者拘束事件、一時は何ともやりきれない事件でした。しかし、いわゆる「人道的見地」に立って善処、とにかく5人の人たちがマニラを経由、韓国の仁川国際空港に無事に着いたということでホッとしましたね。この時の新聞の第一頁の見出しに驚きました。「神様に感謝、すべて許せます」。
彼らが仁川国際空港に降りた直後、報道陣に対して言っている言葉なのだが、これはもう、まったく聖書的。こういうキリスト教的言辞が新聞の第一頁のトップにデカデカと出るとは、日本の新聞としては前代未聞のことでなかったでしょうか。
彼らはクリスチャンなのでしょうか。どうもそのような気がします。あるいはよほどキリスト教的雰囲気のなかで暮らしてきた人たちなのでしょうか。
しらべてみると、北朝鮮のクリスチャンの数は1万3千人と言われる。北朝鮮の全人口が1300万人くらいとすると、1万3千人という数はちょうど0.1パーセントにあたります。過酷な共産主義国家として知られる北朝鮮の中にあって、1万3千人という数は実は驚異的です。
ともあれ、この人々が、「神様に感謝します。今、私たちはすべてを許せます」というのは、本当にすばらしいですね。心が洗われる思いがします。
韓民族が信じる神はハナニムの神様です。ハナニムとは「ただ一つの方」という意味です。韓民族は幸せな民族です。神様は、彼らに当初から「唯一の神様」という深層意識をお与えになりました。
ハナニムという方が聖書に啓示される創造主なる全能の神様のことかどうかは決めにくいことでしょうが、とにかく韓民族に最初に聖書がはいってきた時、「唯一のまことの神」という聖書の信仰は抵抗感無く受け入れられただろうと思います。
これは韓民族の人々が、自己の持つ原理や主義主張に固く立って他と決して安易に妥協しない性格を持っている、その基本的要因だろうと思います。
だから意見や立場が相反する場合には激しく言い争う国民性も生じます。彼らの夫婦喧嘩は有名です。道に出て近所の人たちの前で、お互いに他の非を言いつのって喧嘩する。ただし決して暴力を振るわない。これが韓民族式夫婦喧嘩です。
これに反し、日本人の神は八百万の神々です。本居宣長に言わせれば、蛇でも虫でも、何でもちょっと異なもの尊く見えるもの、山でも川でも、ですからもちろん偉い人、英雄豪傑、戦争で死んだ人、天皇様なら尚更のこと、みんな神様です。
古事記をみれば分かりますが、日本神話では、初めに自然があった。つまり混沌たる海があった。その中から葦カビのように萌え出た最初の神が天之御中主尊という第一代の神様。この方は男女の別はない単性の神で、目に見えない隠身(かみ)であった。
ところが、聖書の神様はまず光を造られる。そして宇宙を、自然を。次々に植物、動物、人間と造られた。しかし、日本の神は聖書の神様の造られた物の中で生まれたという。だいたい次元が違います。
最初の神々が生まれ出る時、日本の古典は「成りませる神」という。この「成る」という言葉について国語学者大野晋氏が言います。「このナルは気候が暑くなる、寒くなる、のナルで、すべてが自然髄順、うまく成って行く」という日本人の人生観の基本です。良寛和尚ではないが、「いるほどは風がもてくる落ち葉かな」ということです。
そこで、「朝昼晩の気温、湿度にあわせ、常に相手に合わせ、成り行きに適応して行くことが大事だ」と考える。なるべく相手を傷つけまい、相手に逆らわないようにしよう。お互い仲良しクラブの一員となることが大切、聖徳太子ではありませんが、「和をもって貴っとしと為す」ということなのです。
裏を返して言えば、一貫して原則を通すということをしない。ここが韓民族と違う所です。彼らは、こうと言い出したら聞かない。日帝時代のあらゆる圧政暴虐を言い募って止めない。慰安婦問題など、一旦火を吹いたら収まることがない。
ところが日本は「まあまあ」といつの間にか、矛(ほこ)を納めてしまう。いつまでも根に持つのは大人のすることではないと言う世界。真相は覆いかぶされて、一切はあいまいに処理され、いつの間にか忘れてしまう。いや、忘れたことにしてしまう。
瀋陽の日本領事館で起きた北鮮一家5人の拘束事件について、あるヨーロッパ人評論家が言っている。「あの領事館員たちは突然の出来事で動転したのでしょう」などと日本人領事館員に同情してくれているのは情けない。恥ずかしい限りです。ともあれ、彼らには「和をもって貴っとしと為す」という日本人らしい性格傾向が、あの咄嗟の時に出て来たのでしょうか。日本人らしい心くばりで、帽子を拾ったり、ぺこぺこ挨拶したりするのです。
こういう、周囲の人に悪く思われたくない。みんなに良い子でありたい。この、人の良さ、気の弱さ、こういった傾向は、私たち日本人のすべての人の心の中に潜んでいるような気がします。これは普段は多く称賛されている日本人のやさしい心です。多くの日本人が幼い時からしつけられてきたことです。
それを今更、威厳をもってしっかりやれ。日本政府の外交官たる者、なんたる弱腰ぞや、日本の威光を示してやれ、などと言っても、急に変身できるものではないのですね。
さて、閑話休題。日本の宗教運動で、この辺の虚を突いたのは創価学会ではなかったでしょうか。
やわらかく、やさしく、近寄って行って、「私どもの仲間の話を聞いて下さい」と、摺り寄ってゆくアプローチの仕方が多くの宗教団体で、普通です。
ところが特に、昭和30年前後、今の池田名誉会長が青年部長のころ、あの人たちの伝道(折伏)は、攻撃的、戦闘的、威嚇恫喝、礼儀なんか最初からありません。教会の門前に立って、「おおい。牧師、出て来い。わしらと法論やろう。お前たちが勝つか、わしらが勝つか、負けたほうが弟子になろうやないか。わしらが負けたら、わしらかてクリスチャンになるで」といった塩梅です。
この積極果敢な攻撃的伝道で見る見る信者をふやします。もちろんこういう激しい伝道をやれるよう、信者教育を徹底します(戸田城聖の「折伏教典」は今読んでも面白い)。そして毎夜の丑三つの勤行を励行させる。丑三つというのは夜中の午前2時半ごろです。この時間帯に1持間か2時間か知りませんが、彼らの祈り、お題目を唱えるのです。
私たちクリスチャンだったら、徹夜、断食、毎夜の祈祷会です。「瀕死の病気だ、倒産だ、子どもが家出だ」、切羽つまって、腹をくくって「今夜は徹夜だ」と、金切り声をあげて気違いのように祈る。
こうした決死の祈り、血を吐くような祈りは奇蹟を生みます。私が生まれた時、難病で100万人に1人の病気、「この赤ちゃんは2週間とは生きません」、医師から言われて私の父は断食徹夜して祈った。「ヤイロの娘を活かしたる主よ。ナインの息子を活かし、ラザロを活かしたる主よ、この赤子を活かし給え」と祈った。そして3日目に私は全身のこわばりが解けて命が助かったのです。これは私が幼い時より聞いてきた私の回生物語です。父は泣いて血を吐いて(肺臓に問題があってすぐ血を吐くのです)、その弱い肺をしぼり出すようにして祈ったのです。
創価学会の勤行はどう見ても、我力の熱心さです。創価学会で言えば、「強盛」の信心ですが、この熱心さは学びたい。信仰生活に隘路、坂道、難路が立ちはだかるのは当たり前です。八方塞がりになっても(第二コリント4:8参照)突破しましょう。イエス様の御名を呼んで、祈って、祈って、行き詰まりを、絶体絶命を中央突破しましょう。