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(回答先: 「世界−内−存在」としてのヒト 投稿者 あっしら 日時 2002 年 12 月 19 日 20:50:39)
あっしらさんへ
何時もながら早速の回答有難うございます。
阿修羅の回復につい心がはやり少し内容(論点)を盛り込み過ぎたようで反省しています。
先ず、ハイデガー 『存在と無』をハイデガー『存在と時間』[Sein und Zeit]に訂正させていただきたく思います。因みにサルトルに邦題『存在と虚無』がありました。どうやら書名を混同したようです。
ナチス政権にたいする関わりの状況については、当時ハイデガーがフライブルグ大学の教授(確か学長)であったこと、夫人が熱心なナチス信奉者であったことが要因の大半を占めていると思われます。他には研究を継続するための方便とみるか、単なる保身とみるか、様々な観方がされましたが、ハイデガ−研究の第一人者であった原佑氏の著作を下敷きにすれば、非常に俗的なのですが研究を継続するための方便という保身であったのではと観るほうが妥当ではないかと考えています。但し、哲学者が政治に踏み込んでしまったことによる蹉跌感は少なからずその後の彼自身を悩ましたに違いないでしょう。しかし、この点に関しては愛弟子で恋人のアーレントの存在でさえ影響を及ぼすものでなかったのですから、他者が真実を穿つことは相当に難しいと思われます。けれども、ナチズムに近代的nationalismの権化を見たということでは、ハイデガーがultra-nationalistであったことは想像に難しくはないでしょう。
ところで、あっしら氏が指摘されるように人間はじめ生物の存在目的がア・プリオーリに合目的的でないことや、またphase3の「存在意義の創造」がア・プリオーリに「存在理由の完結」に収斂していくものでないことは明らかです。しかしながら、「世界‐内‐存在」としての自覚、それは同時に「被投性」を引き受けることに外なりませんが、その人間存在が立ち塞がる原初的不安を超克していくためのメルクマールの在り処はノスタルジアにこそ開示されるとするのが、ハイデガーの哲学の骨子であると理解しています。それが、国家にいつては民族的な伝統や象徴になり、個別的には家系や子孫になり、個別的生においては生物学的な意味での「存在理由」になると考えています。
取り敢えずのレスポンスで失礼いたしますが、次回にはもう少し論点を絞ろうと考えています。
また寄せさせていただきます。