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● 個人情報保護法と「自己情報コントロール権」
あんなに騒がれた住基ネットは、別に大した問題もなく動いているが、今度は個人情報保護法案が国会の争点になりそうだ。与野党協議で野党が特に強く求めているのは、「自己情報コントロール権」を法律に明記することだが、そんな権利を認めたらどうなるかは、欧州をみればわかる。
スウェーデンで、ある人物が「スウェーデン反銀行活動」というウェブサイトを立ち上げ、不道徳な(と彼の判断した)銀行の取締役を実名で批判した。銀行側は彼を個人情報法違反で告発し、被告は罰金刑を受けたが最高裁まで争い、昨年6月、スウェーデン最高裁は「個人情報法は表現の自由を侵害する」という違憲判決を出した。この個人情報法のもとになっているのは「本人の同意なしに個人データを提供してはならない」というEUのデータ保護指令で、これはEU域内すべての国で有効だから、欧州のウェブサイトのほとんどは「違法状態」である。
日本の個人情報保護法は欧州よりも慎重に作られており、自己情報コントロール権は明記されていない。個人情報を「本人が容易に知り得る状態に置いている」ときは同意を得たものとみなす(第28条の2)ので、本人が何もいわなければ違法にはならない。しかし「私は同意していない」と行政処分を求めたら、政令で定める基準(5000人以上とされる)以上の個人情報をもつサイトは、すべて違法となる。
特に危険なのは「2ちゃんねる」などの電子掲示板である。これまではメッセージの削除を要求するには名誉毀損を立証しなければならなかったが、個人情報保護法ができると、スキャンダルを暴かれた政治家は「私の同意なしに名前を載せるな」というだけでよい。検索エンジンも、たとえば私がGoogleに「名前を載せるな」と要求してインデックスから削除させたら、私の名前を載せている2000近いサイトはすべて検索不可能になる。
要するに自己情報コントロール権とは、自分についての他人の言論を私的に「検閲」する権利であり、憲法に定める表現の自由を侵す疑いが強い。住基ネットに反対する市民団体は、住所氏名までプライバシーだと主張するが、住所は政府が決めた公的な区画であり、個人の私物ではない。個人情報保護法が成立したら、住宅地図も本人の同意がないと世帯主を記載できなくなるが、そうなったら地図業者だけでなく宅配業者も蕎麦屋も困るだろう。住所も氏名も公的なインフラなのである。
● 自律的な公のガバナンスの再建
問題は、こういうわがままを「基本的人権」と称し、費用対効果も考えないで住基ネットの「即時停止」を求める野党や市民団体の感覚である。このように「私」が肥大化して「公」に優先するようになるのは、資本主義によってすべてが商品化された大衆社会の病理である。そこには基本的に公的な領域というものはなく、情報も「知的財産」として商品化され、あげくの果てには住所氏名まで私物化されるようになったわけだ。
このような風潮に眉をひそめる「保守派」の老人は「国民の誇り」を強調する歴史教科書を作っているが、そこでは公は国家と同義である。これに対して「進歩派」の新聞が異常な言論弾圧キャンペーンをくり広げているが、こういう国家と私の対立は、特殊近代的なものである。古代ギリシャでは、個人は都市(ポリス)の公共的な空間の一部としてのみ認知され、私的な家計(オイコノミア)はポリスの外側にあった。ところが中世には、家計は封建領地として集積されるようになり、近代に至って経済(エコノミー)は政治システムに組み込まれ、国家という「巨大な家計」が成立したのである。
ここでは国家は、私的利益を追求する「欲望の体系」としての市民社会(市場メカニズム)の矛盾を止揚し、民族を一つの共同体(家族)として実現する、というのがヘーゲルの法哲学である。この図式は、国家を経済の「上部構造」ととらえるマルクスを経て現在まで受け継がれているが、歴史的な根拠はない。近代の主権国家は、たかだか17世紀以降の欧州で初めて成立したきわめて特殊な制度で、数千年前からある市場から必然的に出てきたものでもなければ、それなしで市場が機能しないものでもないからだ。
理論的にも、市場メカニズムが機能する上で政府の存在は不可欠ではない。経済学でよく知られている「コースの定理」によれば、もしも個人が互いにあらゆる財・サービスについて将来にわたって詳細な契約を結ぶことができるとすれば、その履行を保証する司法機関さえあれば法律は必要ない。政府は、契約にともなう「取引費用」を節約する制度だが、唯一のものではない。古代では村などの共同体が信頼を担保する役割を果たし、中世の欧州ではギルドのような職能団体が領地の境界を超えて強い力をもった。現代では、インターネットがギルドに似た役割を果たしつつある。情報が国境を超えて流通する時代には、国家でも私でもない自律的な公のガバナンスをどう再建するかが重要な問題である。
また、国家は政府と同義ではない。問題を行政による事前規制で解決しようとするのは、フランスなどの大陸法の伝統だが、立法はきわめて時間とコストのかかる過程であり、EU指令のような過剰規制を招きやすい。米国では、プライバシー保護についての一般的な規制はなく、個別の問題について司法的に判断する判例主義によって時代の変化に柔軟に対応している。日本は大陸法の影響が強いが、今後は司法による処理に重点を移す必要がある。問題は、個人情報が流通することではなく悪用されることだから、そういう問題が起こったとき民事事件として処理すればよい。
もちろん、そのためには現在の非効率な司法システムでは機能しないので、司法も部分的には民営化すべきだ。ADR(Alternative Dispute Resolution)と呼ばれる民間の紛争解決機関を整備し、さまざまな(営利・非営利の)仲介ビジネスが競争し、さらにこうした手続きを電子化すれば、今よりもはるかに効率的な紛争処理システムが実現できるだろう。知られたくない情報は、暗号などのコードによって自分で守ればよい。コードの問題はコードで解決すべきであり、国家の介入は有害無益だ。市場は資源の分権的な配分メカニズムだが、いま必要なのは権力を効率的に配分する分権的メカニズムである。
● 本当の革命が始まるのは、これからである
このコラムも、今回で終わりである。毎回いろいろな反響があり、私について「市場原理主義」だとか、はたまた逆に「左翼」だとかいうレッテル貼りが行われているようだ。このようにイデオロギーを基準にして言論を分類する発想は冷戦時代の遺物だが、その呪縛は根強い。代案も出さないで政府に完璧を要求する住基ネット反対運動は、旧社会党の「何でも反対」の遺伝子を受け継いでいるし、他方デジタル放送やIPv6のように「お上のやることに間違いはない」という神話にすがる官僚や企業も跡を絶たない。こうした「戦後的思考」を克服する作業は、まだ終わっていないのである。
神話と現実のギャップが情報技術の世界で顕著なのは、もちろん偶然ではない。アナログ信号では、たとえば人間の声とその意味の間には1対1の対応があるようにみえるが、その音声をMP3でデジタル化すると、ソフトウェアがなければただのビット列であり、意味の自明性は失われている。ジャック・デリダの用語を使えば、デジタル信号は物質的な根拠を欠いた「亡霊」のような存在なのである。逆に、その意味はソフトウェアさえあれば同定できるので、イデオロギーや国家的権威などの「大きな物語」によって意味を支えるメカニズムは、デジタル信号には必要でもなければ有効でもない。
これは情報の性格がデジタル化によって変わったのではなく、その本質が顕在化しただけである。マルクスはすでに商品の価値が実体的な根拠をもたない「亡霊のような対象性」にすぎないことを指摘し、ソシュールは言語の意味が恣意的であることを指摘していた。このような無根拠性は、アナログ情報では物理的な制約によっておおい隠されてきたが、デジタル信号は物理的な実体から完全に「脱領土化」し、ネットワークに乗って世界中を飛び回る。情報の生み出す差異を利潤として「再領土化」する所有権によって資本主義は成長してきたが、インターネットは最終的に再領土化できない情報を大量に生み出し、近代の政治経済システムを根底から揺さぶっている。
われわれがここからどこへ行くのか、それはだれにもわからないが、一つ確実なのは、この流れは後戻りしないということだ。電波とコンテンツを国家権力によって垂直統合しようとするデジタル放送が破綻することは時間の問題だし、著作権法の有効期限を75年から95年に延ばそうとする米国の著作権法改正は全米の経済学者の反対を受けている。個人情報を私物化しようとする自己情報コントロール権は、欧州では空文化している。このような試みが失敗するのは、スチュワート・ブランドの有名な言葉のように、「情報は自由を求めている」からである。
神聖な自己=プライバシーを国家が侵害するとか、私の情報は私のものだといった議論は、デリダの批判した「現前の形而上学」の戯画である。私という固有の本質が情報に現前するのではなく、逆に私の存在が情報の集積でしかないのだ。インターネット革命は、こうした固有性=所有権(property)の神話を解体し、あらゆる情報を亡霊に変えようとしている。本当の革命が始まるのは、これからである。自由を求める情報を特定の媒体にしばりつけ、特定の個人が所有しようとする動きに対して、インターネットの自由を徹底的に守る延長上にしか、21世紀の社会の展望は見えてこないだろう。