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本田宗一郎「世界一の二輪車メーカーになる」との夢を追い続けて二人は25年の人生を生き抜いた。
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投稿者 てんさい(い) 日時 2003 年 3 月 09 日 02:13:55:


本田宗一郎「世界一の二輪車メーカーになる」との夢を追い続けて二人は25年の人生を生き抜いた。

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人物探訪: 本田宗一郎と藤沢武夫の「夢追い人生」

 「世界一の二輪車メーカーになる」との夢を追い続けて
二人は25年の人生を生き抜いた。
■■■■ H15.03.09 ■■ 38,464 Copies ■■ 747,264 Views ■■


■1.「幸せだったな」■

 昭和48(1973)年夏、本田技研工業社長・本田宗一郎が中国
出張中に「本田社長、藤沢副社長引退」との予期しないニュー
スが流れた。本田が帰国すると、羽田空港には報道陣が押しか
けていた。迎えに出た西田専務は藤沢副社長の辞意を伝えた。

 藤沢は創業25年を期に、後進が育ったことを見極め、また
カリスマ社長・本田の限界を感じて、西田専務に「おれは今期
限りでやめるよ。本田社長にそう伝えてくれ」と言っていたの
である。

 本田はすぐに藤沢の意図を了解し、「おれは藤沢武夫あって
の社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」と西
田に言った。羽田での記者会見では笑顔で「前々からやめるつ
もりで藤沢副社長と相談していた。それがたまたま外遊中にバ
レてしまっただけだ」と語った。

 10月の株主総会で二人は正式に退任した。本田65歳、藤
沢61歳。世間ではまだまだ現役で通用する年齢だったことに
加え、お互いに息子は会社に入れずに、後継者は本田技研が町
工場時代に大学卒第一号で入社した生え抜き河島喜好45歳だ
ったこともあって、「さわやかなバトンタッチ」とマスコミは
賛辞を送った。

 退任が決まった後のある会合で、本田は藤沢に言った。「ま
あまあだな。」「そうまあまあさ。」と藤沢。「幸せだった
な」「本当に幸せでした。心からお礼を言います」「おれも礼
を言うよ。良い人生だったな」。これで引退の話は終わった。

■2.本田と藤沢の出会い■

 本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月、焼け
跡の残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。戦争が終わって
4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていた。

「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバ
イを作りたいが、金がない。」 福島で製材所を営んでいた藤
沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい。」 
初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの
工面は藤沢」と役割分担を決めた。藤沢はその場で製材所を叩
き売って、資金を作ることを決意した。

 それからの二人は、未来について夜中の12時頃まで話し込
んでは翌朝7時頃から話し始めるという毎日を続ける。毎日毎
日会っているのに、別れる時が辛かった。こういう状態を2、
3年続けたので、二人は一生の分の話をしてしまい、その後は
年に数回程度しか会わなくとも、連携してやっていけた。藤沢
が「おれは辞める」と言ったとき、本田がすぐにその意図を察
する事ができたのも、このためである。

 二人の出会いを、藤沢はこう記している。

 私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかり
しれないものがつぎつぎに出てくる。それを実行に移して
いくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗っ
て突っ走って行くだろう、そう思ったのです。

■3.「今にウチは世界一の二輪車メーカーになる」■

 翌25年3月、藤沢の出資を得て、ホンダは東京に進出、八
重洲に粗末な営業所を設けた。26年に大卒で入社した元副社
長・川島喜八郎は、ホンダというオートバイを作っている面白
そうな会社が営業マンを募集していると聞いて、浜松まで出か
けた。作業服を着て、どう見ても町工場の親父さん然として本
田が出てきて、いきなり、今にウチは世界一の二輪車メーカー
になる、と事もなげに言う。

 営業希望なら東京に行って藤沢に会え、と言われて、八重洲
の魚屋の隣の粗末な営業所に行った。魚屋からハエが飛んでく
るので、ハエ叩きを持ちながら、藤沢は「本田宗一郎は必ず世
界一になるような商品を作るだろう。それをいかに売るかが私
の仕事なんだ」と言った。二人の人柄に強く惹かれて、川島は
その場で入社を決めた。

 その頃の本田は新しいエンジンなどのアイデアを思いつくと、
工場の床にしゃがみ込んで、チョークでスケッチを描いて社員
たちに見せた。既存の製品のコピーなどは絶対に我慢できず、
技術者たちの設計には、「どこが新しいんだ? どこがヨソと
違うんだ?」と真っ先に聞いた。毎朝の朝礼では、ミカン箱の
上に立って「世界一になる」。

■4.ドリーム号■

 それまで本田は旧陸軍の無線機発電用のエンジンを自転車に
つけて売っていた。戦争直後、交通は混乱し、ガソリンも乏し
い時代に、この補助エンジン付き自転車はよく売れた。しかし
これではスピードも遅いし、耐久力もない。どうしても本格的
なフレームを持った強い馬力のオートバイを作りたいと本田は
思った。

 藤沢と出会った昭和24年8月、技術者たち全員の知恵を集
めて完成したのがドリーム号だった。その名は、スピードに
「夢」を託すという意味から本田自身がつけた。平成9年10
月までにホンダは1億台のモーターサイクルを生産したが、そ
の第一号がこのドリーム号であった。

 ドリーム号は好評で、作るそばからどんどん売れた。自分が
工夫したものが人に喜ばれて役に立つことに、本田は無上の喜
びを感じた。

■5.「良品に国境なし」■

 当時の日本製品は国際競争力がなく、産業界は政府に輸出振
興と輸入制限を頼み込む状況だった。しかし、これではいずれ
世界の自由化の波に飲み込まれるか、あるいは閉鎖市場として
世界の進歩から取り残されるしかない。「良品に国境なし」、
本田は技術を高め、世界一の製品を開発すれば、だれも外国製
品を輸入しようとはしないし、黙っていても輸出は増えるはず
だと考えた。

 世界一の製品を作るには優れた工作機械が必要だ。当時の国
産の工作機械では十分な精度が出ない。のどから手が出るほど
外国の工作機械を欲しがっている本田の気持ちを察して、藤沢
は「社長、欲しい機械はどんどん買ってくれ」と資本金わずか
6千万円の会社で4億5千万円もの機械を購入させた。しかし、
その直後に昭和27、8年の不況が押し寄せ、藤沢は必死の資
金繰りで会社を支える。

 当時は外貨が貴重だったが、たとえ会社が潰れても機械その
ものは残るから、国民の外貨は決してムダにはなるまい、とま
で本田は考えたのである。それから7年後、輸出が100万ド
ルを超し、輸入外貨を取り戻した時に、新宿コマ劇場を借り切
り、全国から社員を呼び集めて盛大な記念式をあげた。

■6.マン島のレースに挑戦■

 英国のマン島では毎年世界各国の優秀なオートバイ・メーカ
ーが集まり、技術を競うTT(ツーリスト・トロフィー)レー
スが開催されていた。昭和29年3月、本田はこのレースに挑
戦することを宣言した。

 わたしの幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全
世界の自動車競争の覇者となることであった。・・・

 日本の機械工業の真価を問い、此を世界に誇示するまで
にしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の
啓蒙にある。ここに私の決意を披瀝し、TTレースに出場、
優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを
諸君とともに誓う。右宣言する。

 TTレースへの挑戦は二つの意味があった。ひとつはこのレ
ースで優秀な成績を得ない限り、世界のオートバイ市場をイタ
リア、ドイツなどから奪い取ることは不可能であり、輸出振興
の念願は達成できないこと。もう一つは、敗戦直後の日本人に
希望を与えた水泳の古橋広之進選手のように、技術でグランプ
リをとれば、日本人としてのプライドを持たせることができる、
ということであった。[a]

 宣言の3ヶ月後、本田はマン島で実際のレースを見てびっく
りした。ドイツやイタリアのオートバイはホンダと同じクラス
のエンジンでも3倍もの馬力を出す。しかしすぐに持ち前の負
けず嫌いが頭をもたげる。外人がやれるのに日本人ができなは
ずはない。帰国後すぐに研究部を設けて、徹底的に研究を進め
た。

 5年におよぶ研究の結果、昭和34年125ccでレースに
初参加。初陣は6着に終わったが、36年にはTTのグランプ
リレースに優勝、最優秀賞を獲得したほか、スペイン、フラン
ス、西独各地のグランプリ・レースでも優勝。ここに世界一の
オートバイを作り上げるという念願を遂げることができた。

■7.スーパーカブの大ヒット■

 本田の関心はもっぱらスピードと馬力のあるエンジンだった
が、藤沢の方は市場を見ていた。折から電気洗濯機、掃除機、
冷蔵庫が「三種の神器」として普及し、主婦が消費の主導権を
握る時代になっていた。エンジンむき出しのごつごつとしたオ
ートバイでなく、50ccで女性も乗れる家電感覚のオートバ
イを作ってくれ、と本田に頼んだ。大衆向け商品の大量生産・
大量販売を狙ったのである。

 本田は「そんな、、、。50ccで乗れる車なんか作れるも
のか」と答える。藤沢は「これができなきゃ、本田技研は将来、
そう発展しない」と吹き込む。外国にもそんなオートバイはな
い、と本田が言うと「ないから、つくってくれというんだ。」

 藤沢の挑発に本田の持ち前の技術者魂が頭をもたげた。着手
してから1年8ヶ月という長い開発期間をかけて昭和33年に
完成したのがスーパーカブだった。日本中のオートバイ販売台
数が月4万台という時代に、藤沢は月3万台を売ってようやく
トントンという低価格をつけた。ポリエチレンを使って曲面を
押し出したスマートなデザインと相俟って、スーパーカブは大
ヒットした。藤沢が発案し、本田がものつくりの才能を傾注し
た傑作「スーパーカブ」は、その後も大きなモデルチェンジを
することもなく、44年目の昨平成14年暮れには累計生産台
数3千5百万台を達成した。

■8.アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場■

 昭和34(1959)年には米国に販売会社「アメリカン・ホン
ダ」を設立。スーパーカブの米国輸出を目指した。支配人とし
て渡米した川島喜八郎は当初、米国は自動車の国で、オートバ
イは革ジャンを着た暴れ者の乗り物というイメージを持たれ、
年間6万台くらいしか売れていないことから、「アメリカより
も東南アジアの方が手がけやすいのではないか」と提案してい
た。

 だが藤沢の考えは違った。アメリカこそ、ホンダの夢を実現
できる主戦場だと考えたのである。

 資本主義の牙城、世界経済の中心であるアメリカで成功
すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカで成功しない
ような商品では、国際商品になりえない。やっぱりアメリ
カをやろう。

 スーパーカブはアメリカでも人気商品となった。女性が乗っ
てもスカートがめくれにくいデザインは、従来の暴走族イメー
ジを変えた。250ドルという価格は、大学生がアルバイトで
買える値段で、キャンパスへの移動手段として注目されはじめ
た。グラフ誌「ライフ」に広告をうって、おしゃれで経済的な
大衆商品であることをアピールした。

 昭和53年にはオハイオ州に工場を建設し、日本メーカーと
して現地生産の一番乗りを果たす。その後、四輪車の現地生産
も成功させ、日米貿易摩擦が激化した時も、「ホンダはアメリ
カ経済に貢献している」と評価された。

 現在、ホンダのバイクは日本では2割弱しか作っていない。
藤沢の「アメリカで成功すれば世界に広がる」という考えは正
しかったのである。

■9.99%の失敗■

 こうして本田と藤沢の夢は見事に実現したのだが、それは決
して平坦な道ではなかった。退陣のあいさつで本田はこう言っ
た。

 思えば、随分苦労も失敗もあった。勝手なことを言って
みんなを困らせたことも多かったと思う。しかし、大事な
のは、新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の
過程に99%の失敗が積み重ねられていることだ。これが
分かってくれたからこそ、みんな、がんばりあってここま
できてくれたのだと思う。・・・

 社是の冒頭にある「世界的視野」とは、よその模倣をし
ないこと、ウソやごまかしのない気宇の壮大さを意味する。

 独創性を尊重し、取引き先、お客様、地域など、直接間
接にかかわり合う社会全体を大切にする体質は、理解ある
社外の人達の支えがあり、みんなの努力が実って定着した。
・・・

 これからも大きな夢を持ち、若い力を存分に発揮し、協
力し合い、今より以上に明るく、そして働きがいのある会
社、さらに世界的に評価され、社会に酬いることのできる
会社に育て上げてほしい。

 明日のすばらしいホンダをつくるのは君たちだ。

 ホンダを日本と読み替えれば、我々現代の日本人全体が味わ
うべきメッセージであろう。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(182)フレッド和田(上)〜二つの祖国
 敗戦後、肩身の狭い思いをしてきた日系人たちは、祖国日本か
ら来た水泳チームに熱い期待を抱いた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog182.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 本田宗一郎、「本田宗一郎 夢を力に」★★★、日経ビジネス
文庫、H13

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