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3月3日(日)
今日は、雛祭りです。娘がいる我が家でも、小さなお雛様を飾りました。
お雛様が小さいのは、家が狭くて飾る場所がないからです。……と、娘には言ってあります。
『日本労働年鑑』の編集作業の合間に、近くにあった本をパラパラとめくってしばらく読んでしまいました。これも、現実逃避の一つでしょうか。逃避した先は、保坂正康さんの書いた『昭和史 七つの謎』(講談社文庫)という本です。
これを読んでいて、興味深い「仮説」に出会いました。それは、アジア・太平洋戦争の最終盤、陸軍は「旧満州などにソ連を中心とする社会主義国をつくり、それをもって連合国と対峙しようとしたのではないかという推測」です。
大本営の作戦参謀は、「主として満州国を、たとえばソ連に譲り、その地にいる軍人、民間人をそこの国民にして、対米英戦をつづける構想」を練っていたのではないかというのが、保坂さんの仮説になります。そしてその根拠とされているのが、「大本営朝枝参謀」の名で書かれている「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」です。
この文書は、一九九三年八月一二日に、全国抑留者補償協議会の斉藤六郎会長などの調査によってモスクワにあるロシア軍関係の公文書施設から発見されました。そこにはこう書かれています。
「内地ニ於ケル食糧事情及ビ思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於テハ在留邦人及ビ武装解除後ノ軍人ハ『ソ』聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』聯側ニ依頼スルヲ可トス」
つまり、満州や朝鮮にいる将兵や民間人はソ連の庇護の元に土着してもよいと書いてあるわけです。しかも、この後には「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」と書かれており、日本国籍を離れてソ連の国籍を得ても良いとされています。
この文書は、昭和二〇(四五)年八月二六日となっているそうですから、戦後、満州がソ連の管理下におかれてからのものです。しかし、「既定方針通」とありますから、このような方針の検討と策定は、それ以前から成されていたことがわかります。
この文書の筆者とされた朝枝繁春大本営参謀は、「この文書は私の書いた文書ではない」「ただ、このような文書は八月九日に大本営から関東軍に打電した。しかし、これは大本営や日本政府の意向ではない。私の独断だった」とコメントしています。
つまり朝枝さんは、「私の書いた文書ではない」「私の独断だった」としつつも、このような構想があったことを認めているわけです。こう言っているのは、「大本営の最後の取り乱した姿を隠蔽するために、組織や個人をかばっていると見る方があたっているのではないか」というのが、保坂さんの推測です。私もそう思います。
保坂さんが、アジア・太平洋戦争の最終盤、満州や朝鮮をソ連に売り渡して米英と徹底抗戦するという構想が大本営で練られていたのではないかと推測するのは、ほかにも状況証拠があるからです。それは、ソ連を仲介した和平工作など、四五年六月頃から陸軍がソ連への接近を図っていたこと、朝枝などの大本営参謀が敗戦前後に「打ち合わせ」と称して関東軍に派遣されてきていることなどの事実です。そして、この時、関東軍に派遣されてきた大本営参謀のうちの一人が、瀬島龍三でした。
瀬島は、七月二〇日に大本営作戦参謀から関東軍作戦部に転任し、八月一九日の極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーが関東軍に命令を示達するときの会談にも、序列を飛び超えて同席しています。このことから、瀬島はソ連側との折衝を行うための密命を帯びていたのではないかという推測も生じてきます。
もし、瀬島が大本営の構想を実現するためにソ連側と折衝する密命を帯びていたとすれば、終戦間際に関東軍に派遣されたことも、ソ連側との重要な会談に同席していたことも不思議ではありません。
さらに言えば、ソ連に抑留されてから協力的な態度をとったことも、東京裁判でソ連側の証人として出席したことも、さらには、このときソ連に有利になるような証言を行って、たまたま傍聴していた若き後藤田正晴の反発を買ったことも、不思議ではないということになります。
このように、保坂さんの「仮説」は、これまで私が書いてきた東京裁判での瀬島証言についても、その裏付けを与える「新説」だと言えます。ただし、それはいまだ「仮説」や「推測」の域を出ていないものではありますが……。
そういえば、瀬島さんは、最近、新しい回想録『日本の証言』(扶桑社)を出版されたようです。ここで書いたような事柄には触れられているのでしょうか。
大変興味がありますが、恐らく書かれていないでしょう。朝枝さん同様、瀬島さんも、「大本営の最後の取り乱した姿を隠蔽するために、組織や個人をかばっている」可能性が大きいからです。
瀬島さんには、『瀬島龍三回想録−幾山河』(産経新聞社、1996年)などの回想録がありますが、このような問題には触れられていません。新しい回想録が、どの程度「瀬島龍三の真実」に肉薄しているのでしょうか。関心のあるところです。