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盧武鉉(ノムヒョン)大統領の「三・一節記念式」の式辞は、北東アジアの中心国を目指すビジョンを強調し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核問題と対北政策もまた国民的合意と野党の協力をもとに推進するという就任あいさつの趣旨を再度強調することに焦点が当てられていた。
盧大統領のこうした姿勢が、政策樹立や実行レベルにそっくり移行されるなら、国民と野党は協力を惜しむ名分を失うだろう。
しかし今回の式辞で、韓国の歴史を「正義は敗北し、機会主義が勢力を持つようになった」と断定したくだりについては納得しかねる。
それも大統領の歴史に関する発言が、ともすれば歴史に対する「有権解釈」として受け取られ、それが教育・文化全般にわたって指針となってしまいやすい韓国の風土からすれば、今回の大統領発言がもたらす波紋を懸念せざるを得ない。
もちろん、韓国の歴史は盧大統領の指摘通り、数多くの挫折と屈折を経験してきた。それでも50年という短期間で国家建設、産業化、民主化という世界でも例を見ない成果を果たしたことも事実だ。盧大統領が推進しようとしている「北東アジアの中心国」構想も、こうした総体的な成果が基盤となっている。
歴史に対する寄与のものさしは「民主化」だけにとどまらない。当代の社会が最も切実に必要としていたことを、誰が、どのようにもたらしたかという幅広い尺度で解釈される時、その国の歴史はより豊になり、国民統合もそれを土台としてこそ可能であるはずだ。
こうした点から考える時、盧大統領が「(韓国の歴史で)正義が敗北したこともあり、機会主義が勢力を持ったこともあった」という程度に抑えて発言していても、国家発展にそれなりの寄与をしたと自負してきた多くの国民の心に傷を与えることはなかっただろう。
気炎を上げた文民政府の「歴史の建て直し」や、国民の政府の「第2の建国運動」などの過去の歴史を卑下する運動が、歴史を立て直すどころか、不必要な混乱と分裂の端緒を作るにとどまったという点からも、大統領の歴史解釈はもう少し慎重な姿勢を示すべきだ。