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ルノーは、1898年「Voiturette」を世に送り出すことによってその産声をあげ、瞬く間にフランスで最大手の自動車メーカーになりました。技術、デザイン、コンセプトにと新しい流れを絶えることなくもたらしつづけることにより、ルノーブランドは世紀を超えて進歩し続け、世界の自動車産業の成長に貢献するまでの存在となりました。ルノーは1998年以来今日まで、ヨーロッパで最大の自動車メーカーであり続けています。世界中に20の工場を抱え、2001年におけるルノーの年間生産台数は、230万台に達しました。
すべては賭けから始まった
「Voiturette」を運転するルイ・ルノー
ルイ・ルノーの名声と富は、1898年にダイレクト・ドライブ・システムを発明したことによって始まりました。1898年のクリスマス・イブの日、ルイ・ルノーは、「Voiturette」と名づけた奇妙な自作自動車の実用性を納得させるために友人と賭けをしました。ルイの言うことを信じることが出来ない、そして後にこの乗り物を注文することになる友達が数人見ている前で、パリ・モンマルトル・ルピック通りの坂を登り切ったことで、自動車の歴史の偉大な一幕が始まったのです。当初は高度な技術に基づいて、後にはテーライズムの導入と第一次世界大戦の天下分け目のマルヌの開戦において活躍したことで後にその名声が伝えられる黒塗りのタクシーの生産によって、ルノーの経営はギアが噛み合うようにどんどん上向いて行きました。創業当時ルノーは豪華な車を生産していましたが、ロシア帝国軍の軍用車の台数増加にともない、ロシア皇帝にも2車種を納品しました。第一次世界大戦中、軍用トラック、戦車、航空エンジン、さらには航空機といった軍用製品の生産によって、ルノーの生産能力は飛躍的に高まりました。そして、それがルノーの将来における幅広いラインナップの礎となりました。二つの世界大戦間には、ルノーは自らの工業技術を発達させ、近代化し、世界的にも通用するものへと押し上げました。垂直的合併と自己投資能力によって、独立性は確固たるものになりました。
戦後
1945年、ルノーは国を建て直すためにフランス政府によって国営化され、その名を「Regie Nationale des Usines Renault」へと変えました。その体制のもとで最初に成功した車は、-誰もが乗れる国民車-「4CV」でした。企業戦略の中心には、一例としてアメリカおよび南米への輸出とフルラインナップを揃えることが据えられていました。「R4」 (1961年)、「R16」(1965年、世界最初の豪華5ドアハッチバック)、「R5」(1972年、プラスチックバンパーを始めて採用)、「Espace」(1984年、新しい車の在り方を創造)などの革新的な4車種がルノーの存在を際立たせています。80年代中期の深刻な経済危機に続き、倒産からさえも立ち直りました。トータル・クオリティーを合言葉に、1988年には「R19」を発表、ふたたび桧舞台へと返り咲き採算ベースに乗りました。
民営化とグローバリゼーション
ルノーは1990年に株式会社になり、1996年には民営化されました。現ルノー会長兼CEOであるルイ・シュバイツァーは、新しく民営化された会社として、ヨーロッパでもっとも競争力のある製造会社になる、そして利益拡大の方針を再開するという2つの目標を定めました。これらの目標を達成するために、ルノーは戦略的な提携を結ぶことを決めました。1999年3月27日、ルノーは日産とのグローバル・パートナーシップに調印しました。この提携の目的は、2つのグループがそれぞれのアイデンティティと独立性を保ちながら、国際的な競争に立ち向かうことが出来る力強い世界規模の共同グループを作り上げることです。世界規模での相乗効果の浸透はまだ進行中です。今日、ルノーの日産株の株式保有率は全体の44.4%に達し、一方日産はルノー株の15%を保有しています。同年7月2日には、ルノーはルーマニアDacia社株の大部分を取得することを決めました。さらに、2000年9月1日、Samsung Motorsがルノー・グループに加わりました。このことにより、ルノーは新しい局面を迎え、全世界を視野に入れることが出来るようになりました。