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「金丸訪朝団」動かず、拉致への梶山答弁「記憶ない」
「北朝鮮から、こんな内容の手紙が日本に届いた。調べてもらえませんか」
1990年9月。3週間後に迫った「金丸訪朝団」の先遣隊長として、一足先に平
壌入りしていた当時、自民党衆院議員、石井一氏(現民主党)は、下交渉の休憩時間
に、朝鮮労働党の大物で「金正日の側近中の側近」とも言われた金容淳(キム・ヨン
スン)書記に手書きのメモを示し、頼んでみた。
メモには、欧州で拉致された石岡亨さんから、「北朝鮮で、有本恵子さんらと一緒
に暮らしている」という内容の手紙が、日本の実家に届いたことが記されていた。金
書記は、途端に顔色を変えて、まくしたてた。「そんな手紙が何の証拠になります
か。先生はそれが『南(=韓国)の謀略』でないという証拠をお持ちですか」
予想通りの険しい反応だった。「富士山丸の問題までご破算になったら大変だ」と
思った石井氏は、日本語で書かれたメモを、ようやく押しつけるように渡して引き下
がった。
自民、社会両党国会議員23人で構成する「金丸訪朝団」は、北朝鮮が、通常の外
交ルートではなく、社会党との友好関係を利用し、時の実力者、金丸信氏に働きかけ
て実現した。日本側は、北朝鮮に拿捕(だほ)され、抑留されていた漁船第18富士
山丸の船員2人の解放を最大の目標としていた。「とても拉致を交渉の場で持ち出せ
る雰囲気ではなかった」と石井氏。
しかし、つい2年前には、梶山静六・国家公安委員長が、78年に起きた3組のア
ベック失跡事件について、「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と国会答弁してい
た。
社会党側の団長を務めた田辺誠・元社会党委員長は語る。
「梶山答弁はほとんど新聞にも出なかったし、私は知らなかった。行方不明の人が
いるらしいとは何となく聞いていたが、拉致という認識ではなかった」
金丸氏の懐刀として同行した野中広務・自民党元幹事長は「当時は富士山丸のこと
だけだった。本当に拉致の問題が出てきたのはもっと後だが、関係者には率直におわ
びをしなければならない」とする。
当時、自民党の朝鮮問題事務局長だった武村正義・元さきがけ代表も「梶山答弁は
記憶にない」としたうえで、「有本さんの手紙も知らなかった。今から思うと申し訳
ないが、当時はマスコミも含めて、全くそういう空気ではなかった」と振り返った。
金丸氏はどうだったのか。秘書として訪朝に同行した二男の信吾氏は「当時、おや
じは拉致の話を知らなかった。だれからも報告やレクチャーを受けていなかった。も
し、知っていたら要求すべきは要求したのではないか」と語る。
有本恵子さんが欧州で失跡した83年以降、両親は、手掛かりを求めて地元警察に
何度も足を運んだ。88年に手紙が届くと、外務省と警察庁に駆け込み、救出を訴え
た。しかし、外務省では「国交がないからどうしようもない」「騒ぐと、かえって娘
さんの身が危ない」と言われた。途方に暮れていた90年春、地元選出の石井氏が先
遣隊長に決まったと知ると、父明弘さんはすぐに手紙のコピーを持って上京。初対面
の石井氏に「恵子の件も聞いてみてください」と何度も頭を下げたのだった。
石井氏は訪朝前の勉強会で他の議員にも相談したが、「よく分からない話は取り上
げられない」と相手にされなかったという。
恵子さんの母、嘉代子さんは今も、「安否確認だけでもしてくれていたら。金丸訪
朝団は、私たちにとって大きな望みだったのに、言いにくいことは何も言ってくれな
かった」と語る。
金丸訪朝団は、「戦後45年の謝罪と償い」を約束し、「土下座外交」と批判を浴
びることになる。富士山丸の2人は7年ぶりに日本に帰り、翌91年1月には、日朝
国交正常化交渉がスタート。だが、大韓航空機爆破事件の金賢姫(キム・ヒョン
ヒ)・元死刑囚の教育係を務めた日本人女性について日本側が言及したため、北朝鮮
側は一方的に交渉の場から退席し、開いたかに見えた交渉の扉は、わずか1年10か
月で閉ざされる。再開までには約7年半の時間を要することになった。
(12月24日14:40)
http://www.yomiuri.co.jp/00/20021224i104.htm