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日本が台湾を中国の唯一の正統政府とみなしていた1961年3月、外務省が中華人民共和国とも政府間貿易協定の締結などを積み重ねて「事実上の国家承認行為を行う」というなし崩し承認案を極秘に検討していたことが24日公開の外交文書でわかった。台湾との国交も続ける「二つの中国」政策であり、東西冷戦下で当時の池田勇人首相が、「反共」を旗印に中国封じ込めを主張する米国とは異なるスタンスの独自外交を模索していたことが明らかになった。
文書は「日本の中国政策」とのタイトルで8ページあり、当時のアメリカ局参事官が作成した。
まず長期的目標として「日本の国際環境の安定化を図るため」に中・台両国と国交を結ぶことを掲げている。ただ両国とも相手政府の存在を否定しており、表面的な動きは困難であることから「クワイエット・ディプロマシー(沈黙の外交)の性格となるべきだ」と位置付けている。
具体的な戦術としては、中国との人的交流拡大から始めて「時期を見て政府間貿易協定など、事実上、中国の承認となる関係を積み上げていく」と述べている。特に政府間協定の意味については「台湾との関係を現状のままにして中国を承認することで、日本に関する限り『二つの中国』の関係を作り上げること」と説明している。
98年の外交文書公開で、池田首相が61年6月の訪米で「中国の国連加盟」を提案したが、ケネディ大統領は難色を示したことが判明。中国の国連加盟など「国際情勢の変化があった場合のみ中国を承認する」という受け身の戦略に基づき、中国加盟を米側に打診した。
これに対し今回の文書は、日本政府自身が積極的に動いて対中関係を拡大し事実上の国交関係を作ることに踏み込んでいる点が大きな特徴だ。だが池田訪米直後の61年8月の「ベルリンの壁」建設、翌年のキューバ危機など、冷戦激化の中で米国が対中接近に強く反対。池田首相が64年に退陣したため、この構想は日の目を見なかった。 【高安厚至】
日中・日台関係史に詳しい池井優・青山学院大国際政経学部教授の話 日本は60年安保の嵐を経て「ハト派」の池田首相の出現と高度成長政策があり、対中政策転換の一つの時期だったのではないか。高度成長に向け財界に中国貿易に対する期待感があったこと、さらに「大躍進運動」の失敗という中国側の事情もあり、中国接近がしやすい状況を受けての判断だと思われる。
[毎日新聞12月24日] ( 2002-12-24-03:01 )