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空耳の丘21の起動により 空耳の丘20への書き込みが出来なくなりましたので、ここに続けます。
合理的現実主義者さんの書き込みは次のURLにあります。
http://www.asyura.com/2002/bd20/msg/869.html
表題に有るのは、ご存知の孫氏の兵法にある言葉です。私はこの言葉を私なりに解釈して、敵を知ろうとする時には「何故そうなるのか、その原因は何なのか」を繰り返して反問してゆきます。敵の行動の根源にある考え方を知りたいからです。そこから戦略と戦術を導き出して行きたいからです。
私は、ユダヤ人は戦略と戦術を使い分けるものの考え方が出来る民族であると考えています。そしてその結果民族のよりどころとしての「国土」を持たぬまま2000年を生き抜き、現在地球を覇する一方の勢力としての地位を確保するに至っています。
それに対して我々日本人はどうなのか? この点は十分に考える必要があると思います。
私の見るところでは日本人は戦略と戦術を使い分けるものの見方が非常に下手であると考えています。現象や事態に感情的に反応してしまい、その結果場当たり的な底の浅い行動を取ってしまい勝ちなのでは無いかと思っています。「青年の主張のような」と表現したのはこのことで、交渉に長けた他民族から見れば非常に組みし易すく利用されやすい存在であると思います。それで良しとするならばそれはそれで良いのですが、私はこれからの国際社会を生き抜くにはそれでは非常に心もとないと考えています。
我々日本人が何故このように表裏の無い単純なものの考え方をするようになったかを考えてみると、海によって他民族から切り離された地理的な条件が働いて非常に長い期間にわたって民族間での権謀術数を考える必要が無かったからではないかと思っています。他民族の侵略を深刻に考える必要が無く民族の滅亡などを考える必要が無かったからです。大虐殺の虞が無く、形式的な支配被支配の確認で事が済んできた環境が形成した国民性であると考えています。
これは格闘技のルールを見てもよく解ります。日本の国技の相撲や柔道の勝ち負けの判定は非常に形式的なもので、いかに体力や闘志が残っていても形式的はルールに触れてしまえばその瞬間に負けとなってしまう非常にあっさりとしたものです。これに対してボクシングはどうかというとカウントをとり相手が完全にグロッキーの状態にならないと勝ち負けが決定されません。レスリングでも同じく相手を完全に押さえ込んだ状態にならないと勝ち負けの判定はありません。闘志が残っているか戦闘力が残っているかが判定の基準になっているのです。
そして、このような日常的に生活の身辺で展開されることがらにより、わが国と諸外国との勝負に掛ける感覚の差は広がる一方であったと考えています。
ご承知のように前大戦では敗北が決定的になっている状態で、尚且つ原子爆弾の投下という「駄目押し行動」が連合国によって敢えて取られました。これなども、勝ち負けに掛ける感覚の差によるものだと考えればよく解ります。現在イラクに対して取ろうとしている行動も同じく理解されると思います。決定的なダメージを取らないことには終わりとならないのが世界の普通の感覚なのです。
私がユダヤの執念の根底にあるものを知りたかったのはこのようは理解に基づくためであって、敵をよく知ることが目的ですから、戦術的に相手が間違っていると判断をすれば同じ轍を踏まないような戦術を考えることになります。単純に行動を真似ると考えるから「日本人を大虐殺に追い込む」などと考えられるのではないですか?
日本人の大虐殺は、現実には既になされています。原爆の投下がそれに当たると思います。これなども相手の考え方の特質を理解しなかったために降伏(これは一時的な支配関係を許すだけで、長い歴史の中ではホンの一時的なものです)の時期を取り違えたためですね。
だから単純に自分の好悪だけで他人の発言を抑えるような主張はして欲しくない。
最後に一言。ユダヤは何が有っても民族としてのまとまりを持ったまま生き残って行くでしょう。分裂しているように見えるのも「両方の陣営に足を掛け、都合の良い方を軸足とする」戦法なのだと考えています。他民族との融合などを考えずここまで民族の継続を追及するその原動力は何なのかと知りたいのです。
何があってもユダヤが執拗に生き残ってゆくことを感じているからこそ今の状況が問題とされているのでしょう。今次の失敗でユダヤが滅びてくれるなら誰も問題にしない。放っておくと思いますよ。少々の犠牲が生じたとしても...。