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(回答先: Re: 多くの「拉致疑惑」の反証の反証… 投稿者 ウッチャー 日時 2002 年 9 月 13 日 21:51:54)
ひどい!と思います。
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日朝首脳会談:精一杯の活動報われず 横田さん両親 [毎日新聞9月17日]
「いい結果を楽しみにしておりましたが、結果は死亡という残念なもので
した」。横田めぐみさんの父滋さん(69)は、めぐみさんの悲報に顔を真っ赤にしながら切り出した。涙をこらえて何度もせきこみ、「どういう形で北朝鮮へ行き、結婚し、なぜ死亡したのかを正確に調べてほしい」。最後には「生存者が4人しかいなかったのは誠に残念だが、遠慮せずに喜んでいただきたい」と、仲間を思いやった。
妻の早紀江さんは、やはり「死亡」と告げられうつむく有本恵子さんの母嘉代子さん(76)の肩に手を回した。早紀江さんは「(死亡を)信じることができない。日本の国のために犠牲になって亡くなった若いものたちの心を思ってください」と絞り出すように話した。
横田めぐみさんがこつぜんと姿を消してから24年10カ月。当時、日銀新潟支店に勤めていた滋さんと早紀江さんにとっては長い苦闘の日々だった。
滋さんはしばらくの間、転勤を断り続けた。若い女性の変死体が発見される度、滋さんは身元確認に走ったという。だが、手がかりは何も得られなかった。83年夏、後ろ髪を引かれる思いで本店への転勤に応じ、川崎市に引っ越した。
北朝鮮の元工作員の話などから北朝鮮による拉致の可能性が発覚したのは97年2月。同年3月中旬、2人は韓国・北朝鮮の軍事休戦ラインにある板門店を訪問。「呼べば届くかもしれない」との思いで胸が張り裂けそうになったという。
帰国した2人は、さっそく行動を起こした。同月25日に他の行方不明者の家族とともに「拉致被害者家族連絡会」を結成し、滋さんは会長に就いた。同時に、積極的に街頭署名活動を開始。連絡会が集めた署名は、結成からわずか1年で100万人を突破した。
しかし、事態の推移は両親にとって、失望の連続だった。同年11月に自民、社民、さきがけの3党が訪朝したが、進展はゼロ。98年6月には北朝鮮赤十字中央委員会が「行方不明者はいない」と発表した。
可能な限りの手段を尽くした滋さんと早紀江さん。しかし、その結果は残酷なものだった。
横田さんが通っていた当時、寄居中の校長だった吉井吉夫さん(82)は「元気に帰ってきてほしかった。ご両親のことを考えると、残念としか言いようがない」と肩を落とした。北朝鮮側の対応については「今までは拉致問題はないと言っていた。したたかな感じがする」と不信感をあらわにし、「どういうことで亡くなったのか、今までの情報を明らかにすべきだ」と語った。
横田さんの拉致事件発生当時、新潟県警新潟中央署捜査1課の巡査部長として、捜査に当たった新潟市女池西1、小林貞雄さん(76)は「捜査していた時から『誘拐事件なら、身代金を要求してくるはずだ』と思っていた。もっと早く取れる手があったのではないか」と話した。
事件当時、新潟市の日本海沿岸を歩いてめぐみさんの行方を追った。「めぐみさんは北朝鮮で監視下に置かれたのだろう。亡くなるまでの人生を思うと、やりきれない」と語った。
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