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(回答先: Re: 善悪の判断について 投稿者 三流大学生 日時 2002 年 7 月 05 日 21:10:32)
哲学や言語学の領域にはあまりはまらないように心掛けて回答したいと思っています。
>どうもよくわかりません。たとえば、“真・善・美”という言葉そのものに、良い悪
>いという価値判断をしないと同様に、“偽・悪・醜”と言う言葉そのものにも良い悪
>いという価値判断をされないのですか?
そうです。
善は、対象とした行為が善であると判断したときに使う言葉であり、善という言葉が善であるわけではありません。
言葉の意味と行為や事象に対する価値判断とは別のものです。
価値判断の意味を持っている言葉こそ、その言葉に価値判断を付与することを避けなければならないと思っています。
それは、善だから善であるとか、美しいから美なんだという、ほとんどの意味のない言語表現(言葉)に陥る危険性があるからです。
バカバカしい例ですが、「私は善人だから、悪いことはしない」と言って、自らも悪だと判断することを行う人もいます。
これは、そこそこありふれている例なので、“善人ぶる人間にろくな奴はいない”と判断してだまされない人も多いと思われます。
しかし、「民主主義は普遍的な善である」と語っている統治者が、「素晴らしい民主主義を破壊しようと勢力がいるので、盗聴を行ったり、令状なしで拘束もできるようにした」といった類の話になると、“民主主義は良いものだ。民主主義を破壊しようとする奴らは悪い。悪を抑え込むためであれば、令状なしの拘束も当然だ”と判断する人も出てきたりします。
(民主主義という言葉に善悪があるわけではないことや、言葉に価値判断を持ち込むと陥りやすい危険な論理の下手な例です)
>“善”という言葉から“悪”をイメージできないように、”悪”からは善をイメージ
>できません。
おっしゃられていることを勝手に解釈すると、“善”であると考える状態や行為から“悪”をイメージできないということか、“善”という言葉を見聞きして“悪”の状態や行為をイメージできないということではないでしょうか?
“善”と“悪”は対概念の関係にある言葉ですから、“善”という言葉から、“悪”という言葉やイメージそして同時に“善”のイメージも生まれやすいと思います。
>言葉そのものには、まったく意味が無いとおしゃっているのでしょうか?
言葉には意味があると思っています。
意味があるからこそ、言葉そのものに価値判断が付与されやすいと思っています。
>言語的動物としての人間は、言葉を言葉で解釈を加えその意味を問い、価値を見出す
>宿命にあると思うのですが・・・。
言葉の内なる背後には“不安定な現実”が存在していると思っています。
言葉が指し示す現実が、犬や山などであれば、“不安定さ”が少ないでしょう。
しかし、善悪や民主主義など、人の行為や人がつくった制度、そして、抽象的な概念になると、“不安定さ”が増していきます。
“不安定さ”とは、イメージの不明瞭さと言えるものです。
言語的動物としての人間は、言葉を駆使することで、自身が抱くイメージの不明瞭さや他者とのイメージのズレを解消しなければならない宿命を持っていると考えています。