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ジェニンを廃墟に変えた男の名が分かりました。
以下森沢典子さんのメールを転載します。
こんな事のために。
しかも、犯罪にならないなんて。
それともこれは、世論がひっくり返るきっかけに
なっていくのでしょうか。
今日I.C.U.高校の先生が、学内で行った私の報告会の感想を送ってくれました。
それはハン・ユニスを出る時に、パレスチナ人が私に言った
「訪ねてきた人を目の中でもてなすのがパレスチナの心」という言葉についてです。
この言葉が何処から来るものなのか、何故「目の中」(In my eyes)だったのか私の訳は正しかったのか、あたたかくいつも心に残り、引っ掛かり続けたこの旅のキーワードでした。
だからこの感想は一つのいいヒントになりました。
また、最後に語られている「幸せ」について、「自分が裸になって他人でない他人と結びついていくことでしか、生きる意味を見出せない。そこに幻想でない幸福がある。」
これは自分がパレスチナに行く以前からずっと子ども達や地域の人達と直面してきたことだし、パレスチナでバン!と突きつけられた事でもありました。
「だからパレスチナ人が幸福か」・・・というと、何も言えないけれど、
広河さんが発表したジェニンのイスラエル兵や、シャロン首相の中には果たして心の安定はあるのか。
いつ、攻撃する彼らに、満足が来るのか。
聖書の中に、「イスラエル人の心が安定しないと、人類は幸せになれない」という一説があることを、四国で会った方が話してくれました。
「その意味をわからないまま、ずっと祈ってきました。でも今日から私の祈りが変わりました。ありがとう。」と、その人は言いました。
おかしな例えに聞こえるかもしれませんが、私はずっと幼稚園に勤めていたのでいつも例えて考えてしまいます。
もし、自分のクラスに今の「イスラエル」君がいたら、まず彼を受け入れ、安心して存在していいんだと認識させてあげる必要があります。人は、その安定を得て、初めて自分のしたことや過ち、弱さを直視し、受け止め罪を償う気持ちが生れます。
大抵、人は自分の弱さを認めたくなくて、逃げたり隠しり、他を責めたりすることで誤魔化します。そこには、差別の意識も含みます。自分より弱い物を創り出し、見下さないと自分が上にあがれないのです。
一方自分より強い者には、めっぽう弱く権威に対し過剰に反応してしまいます。
それを繰り返すほど、そうしないと立って居られなくなります。
誰でも、自分の弱さに真っ直ぐ向き合うのは大変です。
だから幼いうちに、それができるようにしておいてあげることは大人や地域社会の義務だと思います。
子どもにちゃんと冒険をさせ、たくさん遊ばせ、それについて自分の背丈分の責任を全うさせることや苦労を保証すること。
それで子ども達は、ボロボロの自分をさらけ出し、自分が凶器にもなることや、自分の限界を思い知ること、弱さをと向き合うことを経験します。
その時に、友達や周りの大人の存在を感じ、自然や環境や人と自分が繋がっていることを知ります。
それに気づいた時、子ども達は自分の中のドロドロしたものを見た分だけ自分の中の輝きも見つけます。
そしてある時スッと立ち、その子の背丈で自立していることを私は何度も目撃してきました。
私はキリスト教徒ではありません。
けれども、その意味で、「イスラエル人の心の安定」は、私たち全ての人間が神様に与えられた課題なのかもしれません。
私たちは何者なのか。
この先ずっとずっと問われていく気がします。
典子
冒頭で紹介した、先生からの手紙
【さて、森沢さんが教えてくれた「自分の目の中の客人」というフレーズを、僕は一生忘れないでしょう。
それは、僕の両親が、よく引用していた聖書の箇所(ヘブライ人への手紙)の一節と重なります。
(皮肉なことに、「ヘブライ人−−ユダヤ人への
手紙」と、「パレスチナの諺」が共通するのです)
「(それまでも知人でないので恩義も互いになく、今後も、二度と会わないだろうから、見返りを期待することもまったくできない)旅人を(精一杯)もてなしなさい」という言葉です。
しかも、森沢さんが持ち帰ってくれた、その言葉は、極めて深い、あるユダヤ人哲学者(カール・マルクス)が資本論の中で、語っていることがらと同様、僕らの日常の逆立ちした常識を覆す、刺激的な認識を含んでいます。
パレスチナの人は、「『私がもてなしているあなた』は、そのそも、私という身体の外に勝手に私と別々に存在している他人じゃないんだよ。「あなた」が私の目の中に飛び込んだ瞬間から、いや、たぶん、あなたが地上に生きていることが、この私が生きている事実とどこかで繋がっている瞬間から、『あなた』は、すでに私自身なんだ。だからこそ、あなたをもてなしていることは、そもそも、『わざわざ他人を』もてなしているのではなく、あなたが目の中で喜んでいるのも、私という体の中の一部が喜んでいるということなんだよ。」そういうことです。
「外側にあるモノ」は、決して「モノ」として世界にあるわけじゃない。そう思うのは、逆立ちした世界像なのだ。そんなことをも、マルクスは「商品」世界の逆立ち
を語る中で語っているのです。ちょっと、理屈ッぽくなってしまったけれど、たぶん、分かっていただけると思います。
僕らは、だから、どんな「豊かな社会」に生きていたとしても、もっとも貧しい者、何も持たない者(=労働者)の一人として、裸で闘いながら生き、他人でない他人と
結び合って行くことにしか、生きる意味を見出さないところに、幻想でない「幸福」があるのだと思います。
パレスチナの人の苦難は、何としても乗り越えていかなければならないし、死と苦痛にさらされ続けることをストップしなければならない。しかし、幸福は、その後で、安定した生活の中に訪れるのでは必ずしもないはずです。今、苦難を本気で一緒に分かち合って闘う人の、結びつきの中でこそ、幸福は実現されつつある……このことは、決して、観念的なキレイゴトではないはずですし、森沢さんは、幸福にも、そ
の一端を現場で、その生身の皮膚感覚で、味わってこられたに違いないと、僕は信じています。
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以上。もちろん、学んだこと、感じたことはまだまたたくさんありますが、とりあえずは、
「目の中の客人」のことだけを、急いでお伝えしたくてメールを出しました。
生徒の感想は、近々、肉筆のまま、(それでも、できるだけ読みやすいようにコピーを工夫して)郵送したいと思っております。】