(回答先: サウジアラビア紙に掲載された「ユダヤ人のペストリー」に関するコラム 投稿者 ドメル将軍 日時 2002 年 3 月 14 日 20:42:01)
ドメル将軍、お久しぶりです。
書かれている内容から推測して、“血のペストリー”は、古代セム系の新年祭(イスラムと同じように春分を年の始まりと考える)に由来するものではないかと考えます。
ヘブライ人やフェニキア人などが新年祭の流れで行った「全燔祭」のことを“ホロコースト”(今ではナチスの「ユダヤ人虐殺」を指すものとして有名)と言います。
(フェニキアは、中東のシリア・レバノン地域を拠点にしつつ、地中海沿岸に植民市を数多くつくった商業国家です。カルタゴは、フェニキアの植民市として誕生し、ローマ帝国に滅ぼされるまでは西地中海で覇を誇っていました。フェニキアが滅びたとき、地中海沿岸に“忽然と”ユダヤ人の都市が現れたことから、そのユダヤ人は、フェニキアと同族だと推定されます。ユダヤ人は、ユダ王国やイスラエル王国に定住していたわけではなく、ローマ帝国によって滅ぼされる前から“流浪”していたのです。「バビロン捕囚」も、統治者や司祭のみがバビロニアに連れていかれ、それなりの待遇を受け、ペルシア王から解放されても、多くが“商売の都合”からバビロニアを離れなかったというものです。「バビロン捕囚時代」の一般ユダヤ人は、そのまま土地に残り畑を耕し、税の納め先がそれまでのユダヤ人統治者からバビロニアの統治者に変わったというものです)
新年祭では様々な生け贄が供犠所で捧げられましたが、「全燔祭」は、最大のイベントで、生け贄として人間が捧げられました。「初子」や子供、そして、数日間統治者と同じような豪奢な生活をした奴隷などが統治者の身代わりとして犠牲になりました。
「全燔祭」は、共同体=国家に降りかかった災厄の除去を願ったり、共同体や個人が犯した過ちの贖罪であったり、共同体の新しい年の隆盛を祈願するためのものだったと言われています。
このような歴史的背景が、“血のペストリー”に結びついていったのではないでしょうか。
過越し祭は、子供の血を使うということであれば、「全燔祭」に近い位置づけの祭なのかも知れません。
ユダヤ教徒が宗教的にどうしても生け贄が必要だと言うのなら、属する国家の許可をとって、身内に犠牲者を求めるべきでしょう。
イスラエル共和国の刑法(タルムード?)についてはまったく知りませんが、書かれている行為は、ほぼすべての国家の刑法にふれるものですから、まともな国家は、きちんと取り締まらなければなりません。