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★先日の地産の倒産の記事↓を見て思い出したこと。
地産の倒産、創業者・竹井の責任〜株式投資で巨額負債、本業は黒字なのに…〔株ZAKZAK〕
http://www.asyura.com/2002/hasan13/msg/170.html
★この本↓は既に絶版のようですが、一読の価値があります。
特にバブル期以降、日本の銀行家、官僚が失ったものが見えてくるように思います。
『信念の銀行家 寺尾威夫』 竹井博友著 竹井出版(平成元年三月十日) より引用。
【引用開始】
◆ 序 ◆
日本の普通銀行の中で信託業務を行っているのは、現在、大和銀行ただ一行しかありません。
大蔵省の行政指導によって、他のすべての銀行が信託部門を分離させられましたが、大和銀行
だけは最後までそれを守り通しました。信託併営こそは銀行にとって最も理想的な経営形態である
という信念を貫いたのです。大蔵省を相手に10年にわたる苦闘の末、それを勝ち取ったという事実
は、日本の金融史においても特筆すべき出来事でした。
その大和銀行を率い、先頭に立って信託分離問題とぶつかっていった人物こそ、寺尾威夫さん
なのです。
昭和25年、45歳という異例の若さで頭取(当時は社長)に就任されて以来、会長となって第一線
を退かれた48年までの異例の長期にわたる23年間、寺尾さんは大和銀行の礎を築き、さらなる
飛翔へと向けて絶大なる功績を果たしてこられました。その原動力となった強固な信念、先を見抜く
眼力、積極果断な行動力は、余人には真似のできないものでした。
そしてそれ以上に寺尾さんを印象づけているのは、誠実で魅力的なお人柄です。公私のけじめを
きっちりつける清廉潔白さと、誰よりも周囲のことを考え、助力を惜しまない心の暖かさを持ち、清ら
かで一点の曇りもない方でした。
寺尾さんは、資金という、企業にとっても個人にとっても最も重要なものを扱う金融機関である銀行
の頭取でありながら、取引先との間に真の意味での信頼を育むことができた稀有の人物です。
それはこの知的で魅力的な人格ゆえのものであり、寺尾さんに接する人々は自然と居ずまいを正
さずにはおれなかったのです。寺尾さんが数々の偉大な業績を成すことができたのも、偉大な人格
があったからなのです。
人間の記憶にいつまでも残るものは、その人の業績や地位などの付属物ではありません。
誠実な真心や人柄など、その人の本質の部分の印象こそが末永く心の中に生き続けるのです。
寺尾さんが逝去されて、すでに14年の光陰が流れました。しかし、私の脳裏には、生前そのまま
の寺尾さんの姿がいつまでもはっきりと瞼の裏に焼きついています。いつも陽気な笑顔を見せ、
トレードマークの大きな声できさくに声をかけてくださり、品のある語り口で人生を教えていただい
たあの姿が、まるで昨日のことのように思い出されます。それは私にとってかけがえのない記憶で
あり、永遠の宝です。
寺尾さんに死語にお会いしたのは、亡くなられる一ヶ月前のことでした。所用で大阪に出かけた
ついでにご挨拶に伺ったところ、ちょうど寺尾さんは来客中でした。特に用事があったわけでは
なかった私は辞去しようとしました。ところが顔見知りの秘書が私を引き止め、寺尾さんはお客を
ほっぽり出して、いつもと変わらぬ元気な姿で廊下に出てきてくださったのです。けじめに厳しい
寺尾さんには珍しいことですが、それでも二言三言お話をして、帰りぎわのエレベーターの前での
「元気でやれよ」という言葉が最後になりました。
今から思えば、寺尾さんはそれが最後になることを心の奥底では知っていたのかもしれません。
神様が最後の対面をセッティングしてくださったのでしょうか。
このときのお元気な様子が印象に残っていただけに、突然の訃報には驚愕のあまり声すらも出
ませんでした。何度も確認をし、それでもまだ信じることができませんでした。私の一生のうち、
神や仏の存在を疑ったのは、後にも先にもこのときだけです。
まだまだ生き続けていただきたかった。教えを請いたいことはたくさんあった。その痛恨の思い
は、今に至るも消え去ることがありません。日本銀行の総裁に抜擢されるのではという噂が聞こ
えてくるほどの大人物であっただけに、ご本人もさぞや無念であったことでしょう。
寺尾さんは、私にとって人生の師でありました。その教えは、いまも私の心の中に脈々と生き
続けています。
このたび縁あってこの偉大なる寺尾さんの伝記を執筆させていただくことになり、その大任を
拝受させていただきましたこと、これに勝る幸せはございません。執筆にあたり、資料集めに飛
び回ってくれた大勝文仁君と有馬恭二君に感謝いたします。
辻堂にて 竹井博友
第4章 公私にわたる一流人 ・・・・・ ”八時さま” p.104〜
【中略】
寺尾さんの人間像を語るうえで欠かすことのできないことに、頑固なまでに守り通した「八時
帰宅」があります。「ミスター・エイト・オクロック」あるいは「八時さま」という愛称を、寺尾さんは
持っていました。仕事だろうと接待だろうと、とにかく寺尾さんは午後八時になると帰宅してしま
うことからついたのが、この愛称です。
頭取ともなれば取引先などとの宴会の機会は多々あります。それがちょうど盛り上がってきて、
「さあこれからだ」という時間の八時になると、寺尾さんはサッサと引き上げてしまうのです。
宴席会議に身をやつす日本の重役の一般的風潮のなかで、寺尾さんは例外的な存在でした。
【中略】
あるとき、当時日銀総裁だった一万田氏との会食の約束がありました。この日、一万田氏は都合
で遅れてしまい、約束の時刻になってもやって来ないまま、午後八時になってしまいました。
すると寺尾さんは、当然のようにそそくさと帰ってしまおうとするのです。 ところが、料亭を出よう
としたときに、ちょうど一万田氏がやって来て、寺尾さんとぱったり鉢合わせしました。 寺尾さん
は一万田氏に挨拶すると・・・・・なんとそのまま帰宅してしまったのです。もう一度部屋に引き返す
のが常識だとも思うのですが、寺尾さんの徹底ぶりはそこまですごいものなのです。
第五章 信託分離問題 ・・・・・ 日本初の信託兼営銀行へ p.132〜
【中略】
寺尾さんは頭取在任中、これらをはじめとするさまざまな業績をうち立ててこられたわけですが、
その中でただ一つ選び出せと言われれば、やはりなんといっても信託分離問題でありましょう。
10人に問えば、10人とも同じ答えが返ってくるに違いありません。
大蔵省が信託業務分離を要求するのに対して、最後まで頑としてうなずかず、ついに信託併営を
堅持させたのが寺尾さんでした。それが現在の大和銀行を築いたといっても過言ではありません。
【中略】
銀行の監督官庁である大蔵省と争うのは、まかり間違えば企業の存亡の危機にまで発展する可能
性のある決断でしたが、全行員がもつ崇高な理念ゆえに、誇りと自負を持ってそれに当たることが
できたのです。
【後略&引用終了】
★かって大蔵省財務官の榊原英資氏を称して、『ミスター・エン』 と呼んだのは、
上述の、『ミスター・エイト・オクロック』 の、もじりではなかったかと思ったりしてます。