今春闘で最も意外だったのは、非情なコストカッターの「温情」だろう。日産自動車のカルロス・ゴーン社長が、組合側の要求通り「ベア1000円」を満額回答。金属労協の「ベア全敗」を止めた。トヨタ自動車のベア・ゼロ回答と対照的な判断だ。業界慣例を切り崩したゴーン社長の狙いは−。
■不況下でこそ甘いアメ?
「他社とは背景が違う。会社再建へ向け、社員の士気を高めたい」
ゴーン社長は、業界の横並びを返上して満額回答に踏み切った理由をそう説明している。
今春闘は、自動車や造船重機など金属労協傘下の大手企業のほとんどがベア・ゼロ回答だった。中でも、業界を代表するトヨタ自動車がベア・ゼロを決め、従来の日本型労使慣行からの決別を図ったことにより、春闘の意義そのものが変質を迫られることにもなった。トヨタ自動車労組は「トヨタではなく、日本株式会社と交渉しているようだった」と振り返る。
それだけに、ゴーン社長の判断は、リストラに耐えてきた社員に報いるという「日本的な温情ぶり」が際立った格好となった。彼の何がそうさせたのか。
「ゴーン氏は、その豪腕ぶりからコストカッターといわれるが、実は痛みの分かるコストカッターなんです」と話すのは経済評論家の三原淳雄氏だ。
「レバノン系フランス人の彼は、ブラジルにも国籍を持つなど、本当の意味での地球人なんです。ルノーでの経験などから、業界内の慣例はともかく、会社再建のために、社員の士気を高めるには何が必要かを第一に考える経営者といえる。日産の現状に照らして、今回は社員に対して、よくぞここまでやってきたな、としっかり褒める時だと判断したのでは」
■『横並び回答に一石』
「カルロス・ゴーン 人を動かす技術」などの著書がある経営アナリストの大富敬康氏は「名優ゴーンの面目躍如といったところ」と評価する。
「フランスの高等教育では、表現力の育成をとても重視する。こうしたパフォーマンス精神は、その後の経営者としての彼の生き方に、非常に大きな影響を与えているとみていい」
その上で大富氏は「彼の経営スタイルは演劇型」と指摘する。「日産を舞台に、社員と顧客、株主という観客をいかに感動させるかに多大な努力を払っている。書店で自著のサイン会を行うのもその一環。彼は日本人のDNAというか、何が日本人の心を動かすかということを、とても熱心に勉強している。今回は社員を自分のファンとすることで、日産再建というシナリオを見事にハッピーエンドで終わらせるための一つの演出を図った」
演劇を意識したゴーン流の経営は、経済界にどのような影響を与えるのか。
先の三原氏は「産業別の労使交渉の在り方が、根底から変革を迫られるきっかけになるのでは」と予測した上でこう続ける。
「日本的経営の代表ともいわれるトヨタの判断と歩調を合わせなかったことで、かえって日産の“独り勝ち”というイメージをつくることに成功した。業界横並びではなく、社員一人ひとりの士気を上げるための改革と目標を提示して、達成した場合にはきちんと評価するシステムへの動きが進むだろう。しかし逆に言えば、失敗した場合にはそれなりの責任を取らせるという、新しい“アメとムチ”の形ともいえる」
大富氏は「演劇型経営が日産以外にも広がっていくきっかけになる」と強調する。「雪印などが典型だが、いわゆるサラリーマン社長がばっこして、社員は社長に対してどこか不信感を募らせているのが、日本の企業文化にはある。ゴーン氏の満額回答は、こうした企業風土に大きな一石を投じた行為といえるのでは」