ニューズウイーク誌は「衰弱死する日本」と特集し、10年後には日本が国として破綻(はたん)する可能性について論評を集めている。そのように現実を厳しく見つめることは大切だが、本当にそういう未来になるのだろうか。
これまでの傾向が変わらないことを前提とすればということであり、真意は変わることを促すことにあるのだと思われる。現に流れは変わりつつあるのではないか。外務省への政治家のかかわり方に対する国民の目の厳しさは並ではない。デフレの一層の深刻化、失業の増大の中で、癒着や既得権などのよどみに対する鋭敏さ、浄化力はこれまでになく強まっている。
とりわけ無批判を当然としてきた「お上」という感じ方の変化は大きい。それは規制緩和による選択肢の拡大にも追い風となろう。しかし、同時にそれは正念場を迎えた構造改革への厳しい目でもある。構造改革が各論に入ってきたことで、さまざまな現実との調整が必要となっているのは事実だが、何のための構造改革か、という原点とのつながりが見えにくくなってきている。その目的は過去の負の遺産を砕く、ということだけではなく、未来に向かって新しい国づくりをする、という面が当然含まれていなければならない。そこがあいまいであったことが行き悩みの原因になりかかっているのではないか。
21世紀の2年目となり、ようやく20世紀をつくってきた拡大主義や唯物主義、自己中心主義の前提のままでは走れないことがはっきりしてきた。そういう新しいパラダイムによって新しい国や世界をつくるために、日本が本来もっている特色をどう生かすのか。その視座から魅力あるビジョンが示され、広く理解されるなら、それを実現するための苦労をいとう国民とは思われない。(猷)