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ちょっと、遅れ記事ですが、金融危機とデフレ経済を解く(2)【吉田繁治】↓
http://www.asyura.com/2002/hasan16/msg/181.html
の第3段をアップします。前回、前々回と、あっしらさんに貴重なコメントをいただきましたが、今回もよろしくお願いします。
2002年11月13日号:Vol124<決定版:金融危機とデフレ経済を解く(3)>巨大化した共同体組織の分解の時代
こんにちは、吉田繁治です。「文藝春秋」の12月号に、『日本大変 論客10人経済徹底討論』の記事が組まれています。竹中プランで日本は再生か崩壊かと副題がついています。「エコノミスト」等の他誌でも同様の議論がありますね。これらは、政府への要望を戦わせているだけと見ていい。
要は、(1)供給過剰のデフレギャップを、政府予算拡大で埋める財政発動、(2)インフレ目標によるマネーの供給のいずれがいいかをめぐるもので、論の方向から逆に見れば、単純な議論です。事の推移は、予測が可能です。
(1)不良債権処理の過程で不動産、流通、建設と銀行から大手問題企業整理のスケープゴート(犠牲)を出す。
(2)失業と恐慌の恐怖をマスコミが伝える。
(3)政府は、予算拡大に走る。
できることは、ここまでです。私の予想では、財政発動とマネー供給がミックスして妥協的に行われることになるということです。議論を見ていると、行き着くところ「政府と日銀は、経済運営で万能」であって「すべては政府の責任」とされる。国民が、政府に依存する性癖があればあるほど、官の機能は拡大し、税というコストは上昇します。
国家の運営が税でまかなえなくなれば、最後は通貨への不信が起こって、(時期はともかく)負債の自動的な清算である「インフレ」が待つ。デフレはインフレの準備です。世間の方向は、「政府依存」です。政府依存の先を見なければならない。本稿は、論が向かう「政府への要望」ではなく、階層を深め何が問題の本質であるかを考察しようと思います。(本稿の配信が水曜日になったことを深くお詫びします)
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<決定版:金融危機とデフレ経済を解く(3)>
巨大化した共同体組織の分解の時代
【目次】
1.共同体になった企業組織
2.存在の自己目的化
3.巨大組織に蔓延したモラルハザード
4.共同体への転化
5.社会的コストの上昇
6.銀行は信用金庫化が新しい方向
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■1.共同体になった企業組織
人間は、社会のなかで集団を形成します。集団はその内容で見れば、共同体と機能体の2種類にわけることができると看過したのはマックス・ヴェーバー(1864〜1920)だった。集団のなかで、個人の役割(機能)を決めたものが組織です。
▼巨大な共同体になっていた陸軍
<今の日本では、企業はみな巨大な共同体と化した。これに対する歯止めの機構は日本社会のどこを探してもない。では、この日本がこのまま暴走を続ければどうなるか。
・・・恰好(かっこう)の例を発見。どこにあった? 戦前の日本の陸軍にあった。なぜ日本が大東亜戦争に走ったかというと、(共同体化していた)陸軍が絶対に支那(China)から撤兵しないといったからである。なんで支那に留まるかというと英霊に申し訳ないという理由だ。(『日本資本主義崩壊の論理』小室直樹1992)>
資本主義経済での企業組織は、商品やサービスを提供し、顧客からマネーを得る「機能的」なものです。その企業が、組織の構成員の生活のための「共同体」になる。
▼巨大になった共同体が崩壊する時代
共同体として成立してきた理由は、売上の持続的拡大による若年者の新規雇用です。そして、問題のゼネコンに典型的に見るような大企業と中小企業の下請け、孫請けのピラミッド構造です。社会の隅々まで張り巡らされていた「企業序列の巨大構造」が、国内では年齢構成の変化によって、海外からは比較上の低賃金労働で生産する製品の侵入によって、崩れてきたのが90年代でしょう。
いずれも後戻りができない原因ですから、日本経済や企業が、過去に戻るような「再生」はない。エコノミストの議論は、GDP(国内総生産≒国民所得)の量の上昇と下落です。問題はGDPの内容ですね。価格デフレが終われば解決して、規格品量産で成功してきた日本経済が再生するというのは誤りです。
「規模の経済」の時代が終わって、一人一人の顧客との関係を重視することが成果をあげる経済が、パーソナルコンピュータによるネットワークによって始まったと見なければならない。21世紀はそうした時代です。
日本人の特質は、米国流、中国流の粗雑で大きなもの(大陸型)を、緻密、高性能、高品質にして小さくすること(島国型)です。
京都の先斗町を歩けば、通りは両手を広げれば両方の料理店に届くくらい狭い。小錦や武蔵丸は歩けない。いつも、あぁ、これが日本だと思うのです。相撲も、主人公の貴ノ花が巨大な体になったとき人気がなくなった。
おそらくバブルの時期に、本来は不得意な大きなもの、大きなこと、巨額資本の運営もできると錯覚したのではないか? ここに根本的な、方向の誤りがあるように思えます。
メガバンクの経営など、日本人には、不得意なことです。パーソナルコンピュータも、ナノテクも小さい。これから家電も機械もどんどん小さくなる。巨大工場の時代は終わった。
小さくて巨大資本も要らない。先鋭的な知識と技術があればいい。小さくキリのようにとがって専門化することが、ネットワークと情報化ロジスティクスで世界的になる。インターネットとはそうしたものでしょう。
インターネットのなかでは、巨大企業も、個人企業も並列です。なんら差がない。むしろ巨大な総合サイトは運営コストのムダですね。21世紀は、他国民がどうやってもできない、日本人の得意領域に入ると見ています。方向を間違えなければ・・・
「巨大になった共同体」が、世界的に言っても、小さく分解して崩壊する時期であると見ています。巨大企業組織の共同体化は、日本だけではない。世界に共通です。
本稿は、あえて、イメージ的に描いています。そのほうが想像力を刺激すると思うからです。
■2.存在の自己目的化
生活共同体の色彩を強めた企業は、社会のなかでの経済的な機能が無効になっても、営々と存在することを自己目的とするようになる。そして、共同体内部の「倫理と規範」は、外部社会の「倫理と法」に優先する。「共同体」の利益や存続のためであるなら、「外部社会の法や倫理」を犯すことがあっても、内部では「英雄的な行為」と評価されます。
他方、外部社会の倫理と法に従うことが、共同体の利益や存続に反するときは、人間として恩や感謝を知らない卑劣な行動とされる。日本人は、こうした共同体の内部規範と外部社会の倫理のハザマで呻吟(しんぎん)してきた。
このあたりは、西欧・米国人と違う点です。西欧・米国人は、外部規範を共同体内部に取り込む才がある。「都市」的国民でしょうか。日本人は共同体内部で「同質」を要求する「ムラ」的文化をもっています。
小規模な「ムラ」に戻ればいいのです。そして、小規模なことをやればいい。小規模であることが、生産性が低いという時代は終わった。今後の時代は、小規模であることが生産性を高める。パーソナルコンピュータとネットワークは、そのためのツールです。規模の優位性を無効にします。
巨大ショッピングセンターの運営は日本人に向いていない。おそらく10年後には、多くが廃墟になるでしょう。他国に比べれば異常に発達した、売り場30坪のコンビニエンスストアのような細かく緻密な商売が、日本人は得意ですね。
巨大共同体は、社会全体から見ればやっかいな存在になる。戦前の陸軍が、恰好の例だったと小室直樹は言います。(巨大化した)陸軍が、ナショナル・インタレスト(国民の利益)のために存在する機能的なものではなく、組織の正当化の内部規範から撤兵を拒否した。
それを、だれもとめることはできず、日本は大東亜戦争に突入した。陸軍の内部では、国民の利益という目的は消え、中国の戦場で死んだ戦士の英霊を祀(まつ)るためとして駐留を続けた。
日本人は、第二次世界大戦の最後の時期に、時代遅れの巨大戦艦大和を作ったことを思い出してください。こうした歴史のアナロジーは、無視できない。共同体は、小さいとき有効です。巨大化すると、無効になって崩壊する宿命をもつ。
■3.巨大組織に蔓延したモラルハザード
モラルハザードは、リーダーの第一条件として求められる企業倫理の荒廃です。
今、日本では多くの銀行が、必要な自己資本と利益を横並びであらかじめ決めた逆算方式の「粉飾決算」で自己の存在を正当化しています。粉飾決算内部では正当化されますが、株主と外部社会に対しては犯罪です。
銀行という生活共同体は、無条件で守らなければならない。そして、社会に対しては、金融危機を起こしてはならないという名目が備わっている。銀行や多くの企業にとって、企業会計は、無条件で守るべき社会規範とは見なされていない。内部の都合によってどうにでも粉飾できるものとして運用されています。
企業会計の厳正さがなくなれば、資本主義は機能しません。資本主義では、会計は、それくらい大切なものです。株式会社は、株主の資本を預かり、資本の対価を株主に支払うことを契約する人工的な制度です。
みずほ銀行ホールディングの前田社長は言った。<税効果会計(税の予定還付金を自己資本として計上する制度)を金融庁が変えるというなら、30兆円の資産を圧縮する必要がある>
融資されている貸付金(銀行にとってのリスク資産)の回収を図るという脅しです。戦前の陸軍と同じような発想と行動様式であることに、彼が気がついているかどうか。
露骨に言い換えれば、前田社長の発言は<銀行は生き残るためにはどんなことでもします。それでもいいのですか>という宣言です。シュンペーターが言った「創造的破壊」という経済の進化のプロセスがあります。過去のものが亡びることができるから、新しいものが生まれる。
その意味で言えば、過酷ではあっても恐慌(≒20%失業率)は、経済の自然な過程です。今、若年者の失業率は既に20%に近い。これは、賃金が下落過程に入ったことを示します。そのなかで、今までの賃金を守ろうとする大手問題企業の共同体がある。
中小企業では、バブル投資の誤りは、連帯保証で生命保険すらかけることを要求されていた経営者(=株主)の破算に至っています。今までの90兆円の不良債権処理は、多くが、バブル投資の中小企業の清算でした。
大企業でバブル投資の誤りで責任をとった経営者は少ない。銀行は、一般に大企業経営には債務の連帯保証を求めない。個人で保証できる金額ではないことも理由ですが。残る135兆円(とされる)不良債権は、その内容を見れば、大手銀行と大手問題企業の間のものが多いのです。
ところが、ここでは債権放棄が行われる。70%以上は中小企業に勤める国民の怨嗟の根はここにある。一社に対し5000億円の債務カットをするなら、1億円で中小企業5000社を救済できるかもしれない。
こうした政策の選択について議論が起こらないのは不思議です。理由は救済する中小企業の選択に合意を形成するのが困難だからでしょう。にもかかわらず、こうしたことは、社会の不公正感を高めます。
自然の世界の摂理は「新しい生命を生む生殖は、個体の死」でもあるということです。今この国では、次第に「共同体の自己崩壊」の様相を呈してきた。これが、モラルハザードです。
大手金融業から40代以下の世代の脱走が始まっています。20年といわず10年先を見たときも将来がないからです。人間は予測と希望で動く。危機が生じる先に、事態の変化を予想し先に動く。これはマネーの動きとも同じです。
経済の法則は、どんな性格のものであるか、といつも考えます。自然科学的なものあると仮定すれば、人間はその法則を勝手に変えることはできない。引力の法則は、さぁ王が通るからといって、引力に頼んで、一時停止させることはできない。(笑)
今この国には、政府万能神話がはびこっているのではないか? エコノミストの議論を聞くと、そう思えるのです。法と制度で、経済を統御できるというのは、幻想ではないのか。
■4.共同体への転化
機能組織の共同体への変化ということを、さらに見て行きます。
▼日本の資本主義
<日本の資本主義は「企業神(という)倫理と日本資本主義の精神」という形で解明されるべきもので、各人の精神構造は、その社会構造に対応して機能している。これを無視すれば、企業は存在しえない。この対応を簡単に記せば、機能集団が同時に共同体であり、機能集団における「功」が共同体における序列へ転化するという形である。
そして、全体的に見れば、機能集団は共同体に転化してはじめて機能しうるのであり、このことはまた、集団がなんらかの必要に応じて機能すれば、それはすぐさま共同体に転化するということを意味しているであろう。(『日本資本主義の精神』山本七平)>
山本七平が「企業神(という)倫理と日本資本主義の精神」と書いたとき、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(ヴェーバー:1905)を意識していますね。ヴェーバーの「プロテスタンティズム」が、日本的「企業神」に置き換わっている。
▼功による長という序列
機能集団におけるなんらかの「功」が、共同体内部の「序列」に転化するというのは、日本企業の組織の内容、つまり「長」の制度の特性をよくあらわしています。
社長、部長、課長等の「長」は、西欧・米国的な、機能的、または経営(マネジメント)技術をもつ「マネジャー」というより、共同体内部での身分的「序列」に近いものです。特に、大企業の組織内部では、身分的「序列」意識が激しい。
米国企業で、序列やえこ贔屓(ひいき)がないことはないのですが、それ以上に個人損益計算の「成果」で評価されるのとは好対照。米国型企業は、どんな巨大組織でも、個人責任と成果を明確にし、個人損益計算をもとに経営されますから、巨大組織の弊害は出にくいのです。
ところが、日本人は、巨大組織でも行動文化を揃え共同体的に行動する。そうすると、巨大組織になればなるほど、経済的に非合理になる。日本的企業では、個人の業務成果を数字で明らかにすることは嫌われることが多い。その理由は、共同体内部の「功」による統制の序列を崩すからです。
共同体組織では、成果で賃金差を作れば、序列と企業内秩序が崩壊する。日本人の本性は、機能組織までを共同体化することを仮説とするなら、組織を小さくすれば、一糸乱れない強い組織ができる。
▼業界「秩序」の統制
経済的には非合理な身分的な序列を維持できる理由は、外部との競争がないときです。競争を統制してきたのは旧大蔵省だった。銀行の営業形態、金利、商品、サービス、支店の設置にすべて大蔵省の目が光っていた。江戸時代の、江戸城と地方の大名からなる幕藩体制に類似します。官僚制度は、綿々と過去を引きずっています。
高層ビルのオフィスのなかで江戸時代に見まがう「序列による宮仕えの儀式」がうやうやしく執り行われている。とりわけ、制度で規制された産業であった銀行では、企業内の身分的序列による組織統制が強かった。
年齢構成が、組織の上にいくほど少なく、定型作業を行う現場ほど人員が多いピラミッド型であった時代(およそ80年代中期まで)は、組織内序列による統制で、うまく行っていた。組織内部での序列が、年功での賃金に比例していたからです。
■5.社会的コストの上昇
しかし、年齢構成グラフで「ヘッドヘビー」になると、年功の平均賃金の合計は上昇し、銀行の社会的なコストが次第に上がってきた。バブル崩壊のために、土地担保が下落し、そのため回収不能債権を抱え、銀行の経営困難があるというのは一面的な見方です。
銀行は、今のままでは決して存続はできない。巨大銀行の機能維持のためのコストが上昇しているからです。政府資本の投入(これは、すでに確定しています)があれば、さらに、社会的コストはさらに上昇する方向に、向かうはずです。
過去に政府の強い介入があったから日本の銀行機能は洗練されなかった。ここで、実体的に国有化を図れば、仮に現経営陣のパージ(追放)があっても、コストが下がることはない。
ネットワークとコンピュータのハードコストが低下した時代にあって、デジタルデータを送信・保管するに過ぎない送金料のばかばかしい高さを見れば、それだけでも現在の銀行機能の無効性がわかる。
ムダを含む巨大組織になったため、コストが上昇したのです。「規模の経済」が、全然働いていない。送金料を見れば、実際はコンピュータ入力をしたように見せて、金庫の裏で膨大な数の係員が現金を数えて封筒詰めをし、現金書留で送っているのではないかと疑います(笑)
わが国の銀行問題の本質は、ここにあるのです。銀行の事務処理の機能は、ほぼ全面的に、デジタルプロセスにできる。融資の機能もデータウエアハウスとデジタルプロセスにできます。支店の多くは、必要がない。
振り込みや出金をするために、銀行のイスで番号札をもって待つことは、だれにとっても生活の楽しみではないはずですね。処理と保管の手間がかかった紙幣の時代の銀行機能が、そのまま、死滅せず残っているように思えます。
顧客にとっても、社会にとっても必要がないものは、いずれ消える。これが原理に思えます。戦前の強固な巨大共同体であった陸軍は一夜で消えた。自分から消えたのではない。日本にとっての外部世界が消滅させた。共同体的組織の多くは、外部世界からの圧力がかからないと変わることはできない。
(注)銀行に個人的恨みがあるのではないのです。かなりの数の知人がいます。それでもあえて申し上げておきたいのです。
■6.銀行は信用金庫化が新しい方向
80年代中期から、上場企業は、資本調達を銀行に依存しなくなりました。増資と社債で市場資金の直接調達を行った。ところが、相変わらず銀行は、預金を集め続けた。余ったマネーは、不動産担保で土地取得に向かった。土地バブルが起こった。建設、不動産、流通が土地を購入した。
信用金庫、相互銀行、地方銀行は常に預金超過で、都市銀行へのコールマネーを供給した。都市銀行は、融資シェア確保のため無理やり企業融資を行った。
都市銀行は都市を地盤とします。(笑) 地方のマネーは大都市へ、そして東京へ集まって、都心商業地は1坪で1億円を超えた。一方、政治家は地方出身が強固な地盤をもつことができたので、都市の経済活動から生じた税を、地方へもって帰る仕組みを作った。
都市にはバブルマネーが溢れ、地方は公共事業漬けの経済になる構造が、マネー還流の仕組みから出来上がった。地価が、(日本人のエネルギーのため)、世界史上最高の価格にまで行って、そして崩壊した。
日本人は、いろいろなことでばかばかしいくらいまで行き着くことができる能力をもった国民であると思います。問題の根底はどこにあったか?
上場優良企業が、市場資金での資本調達に変わったのに、相変わらず都市銀行にマネーが集まったことです。
融資先を失った都市銀行は、土地担保で、わけのわからないところにまで貸しつけた。不良債権問題は、実は大手銀行のほうが大きいのです。日本の重化学工業の資本供給元であった興銀が融資先を失い、料亭の女将、尾上縫に数千億円も(偽の預金担保で)貸したことは、象徴的事件です。
都市銀行は、地方での融資活動では弱い。大都市中心の、融資を行っていた。このマネー還流の仕組みを変えることが、今後の課題です。インターネットと情報化ロジスティクは、コストの安い地方での経済活動を有利にします。そうした原理がありながら、大都市の大企業の販売組織を通じて、企業活動を行っていることが問題です。
佐渡島であろうが、稚内であろうが、インターネットでの不利性はないのです。伊豆大島でもいい。地価の安い宮崎でもいい。労働力は豊富です。ポイントは、直接、国内全部、および世界の「個客」と結びつくことです。大企業とは、生産組織である以上に「物理的な販売組織」です。
販売組織をもつことが強くなる理由は、ひとつしかない。「個客」と直接結びついていることです。ソニーブランドも、工場は世界中ですから、生産では事実上のアウトソースを行っています。ソニーブランドとは「個客」に結びついたブランドの価値以外にない。そこを見れば、新しい道をひらくことができます。
「個客」に直接結びつくことができるのは小組織です。間違いは、小組織が大組織の真似をして、二流の商品を提供したことです。
▼信用金庫のブティックバンク化
地場産業や中小企業の育成という発想に誤りがあります。世界産業の育成を行うため、緻密に、資本供給と経理を支えるという姿勢に転換しなければならない。インターネット時代は、知識化し、専門化された狭い分野で、世界産業であることができる時代です。
シアトルの(瀟洒な田舎都市です)マイクロソフトが、短期間で世界ナンバーワンの産業になったように。これはネットワークを抜きにして語ることはできない。巨大共同体になった大企業組織は、世界的に分解に向かいます。それが、経済の主役が交代する「恐慌」ということの効果です。業種の専門に特化した小規模融資機関、これが必要です。
レストランチェーンの専門融資銀行、ソフトウエアの融資銀行、ラーメン店の専門融資銀行です。こうなれば、世界のコンサルタントファームとも提携関係を作ることができます。小組織までが、横並びで総合化・規模化を目指した誤りが、日本の沈滞の原因でしょうね。
西欧の辺境、山国の小国スイスは、溢れるような自然のなかで世界で豊かな生活をしている。スイスのメーカー、銀行、観光産業は、いずれも、総合化ではない。極度の商品範囲の限定です。キャッチアップする対象は、もう米国ではない。中小企業が世界への販路をもつ国、スイスでしょう。
日本人は、方向が定まれば、一勢に走ることができます。世界で、日本のように「地方銘産」が残っている国は少ない。駅が変わるたびに、名産の駅弁がある国は世界のどこにもない。空港に行けば、それぞれが、地方銘産のものだらけです。
資本と技術と知識の提供で育成すれば21世紀の産業を先取りしているように思えるのです。マクドナルド的な画一文化の20世紀は終わったように思えます。モデルを変えればいい。数年をかけて、大組織の分解が必然です。
すぐれて地方であることが、世界になる.すぐれて小規模であることが、大規模になる。個性的であることが、普遍になる。一人の「個客」に優れたサービスを提供できることが、世界の顧客を獲得できることになる。小さく、具体的に考えることです。
これが21世紀です。横並びで、差異化のない商品とサービスは、次々に消えます。時代は、規模化と量産の後の近代化の後の世界、Post-Modernismに向かっています。
今回は、21世紀の産業の、イメージ的記述を行いました。 see you next week!!