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インフレとデフレについての考察
投稿者 Ddog 日時 2002 年 11 月 13 日 00:11:25:

<http://www.hotwired.co.jp/altbiz/noguchi/021106/> 野口旭の「ケイザイを斬る!」 

人々はなぜデフレを好むか 

人々を動かすのは利害か無知か

「ケイザイ」とはつくづくやっかいなものである。そこでは、さまざまなことが原因となってさまざまな現象が起きる。しかし、現実には、その原因と結果はスパゲッティのように複雑に絡み合っているので、その因果関係を科学的に明確な形で認識ないし実証するのは難しい。そのため、相互に矛盾する多種多様な考え方が、いつまでも対立しつつ併存し続けることになる。

実際、「日本の不況の原因とは何か」とか、「日本経済の低迷を克服するには何が必要なのか」といった、われわれにとって最も切実で基本的な問題についてさえ、論者の見解の相違は甚だしい。日本の経済情勢と同様に、日本の経済論壇も、議論はますます混迷し、拡散し続けているのである。

とはいえ、ものごとには限度というものがある。いくら経済論議に白黒をつけるのは難しいといっても、これほどまでの混乱を放置していていいはずはない。要するに、ちょっと冷静に考えてみれば、その誤りや矛盾がただちに明らかになるような議論が多すぎるのである。本来なら、経済論壇においても、そのようなノイズばかりまきちらす「専門家」は淘汰されるべきなのである。
残念ながら、「悪貨は良貨を駆逐する」の法則は、経済論議においても成り立っている。経済問題について相対立する二つの考え方が存在するとすれば、メディアなどで強く支持されるのは、より正しい方ではなく、より誤った方であることが多い。メディアで露出する専門家は、より信頼できない人々であることが多い。したがって、一般社会の「通念」となるのは、より誤った考え方であることが多い。
筆者はこれまで、さまざまな経済問題に関して、メディアなどに流布されることで世間一般に幅広く信じられているような考え方について、その「おかしさ」を意地悪くねちねちと指摘することをライフワーク?にしてきた1)。本連載も、基本的にはその一貫である。

しかし、これからの連載では、そこに一つの新しい観点を付け加えることにしたい。それは、人々が「おかしな経済論」を論じたり信奉したりする背後には何が存在するのかを常に意識するということである。結論的にいえば、そこには主に二つの要因が考えられる。一つは「無知」である。そしてもう一つは、「利害」である。

一般に、専門家にとっての常識が一般社会の常識になるのには、タイムラグが存在する。たとえば、現代のような科学万能の時代でも、迷信は決してなくなりはしない。それは、経済のように白黒がつけがたい分野においては、なおさらそうである。したがって、専門家にとっては明らかに誤った考え方が、一見するともともらしい。
しかし、これからの連載では、そこに一つの新しい観点を付け加えることにしたい。それは、人々が「おかしな経済論」を論じたり信奉したりする背後には何が存在するのかを常に意識するということである。結論的にいえば、そこには主に二つの要因が考えられる。一つは「無知」である。そしてもう一つは、「利害」である。

一般に、専門家にとっての常識が一般社会の常識になるのには、タイムラグが存在する。たとえば、現代のような科学万能の時代でも、迷信は決してなくなりはしない。それは、経済のように白黒がつけがたい分野においては、なおさらそうである。したがって、専門家にとっては明らかに誤った考え方が、一見するともっともらしいがゆえに「経済常識」と信じられがちになる。筆者はこれを、「世間知」と呼んでいる2)。

他方で、明らかに誤った考え方が、ある集団にとっての利益に直結するがゆえに流布されることもある。たとえば、特定の業界を保護する政府規制の多くは、その規制の「社会的必要性」を叫ぶ人々によって導入され、維持されることが多い。要するに、彼らは「悪人」なのである。この点においては、ある経済的ないし政策的主張が論じられる背後にはどのような利害関係があるのか、悪人は誰なのかを見極めることが必要になる。

というわけで、人々が誤った経済論を信奉する背後にあるのは、無知なのか、それとも利害なのか―それをこれから考えていくことにしよう。手始めは、「デフレ」についてである。

1『経済対立は誰が起こすのか―国際経済学の正しい使い方』(ちくま新書、1998年)、『間違いだらけの経済論』(ごま書房、1999年)、『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社、2002年)などである。

2筆者が用いる「世間知」の意味については、拙著『経済学を知らないエコノミストたち』の第1部をご参照いただきたい。

デフレを好むメディア

9月末に行われた小泉内閣初の内閣改造以来、株価の急激な下落が続いている。それは、新たに金融相も兼任することになった竹中平蔵・経済財政担当相による「不良債権処理プロジェクト」の発足が、政府による強引な企業選別・淘汰への懸念を増大させたためである。

この危機的な状況を前にして、メディアの多くが、ようやく「デフレ対策」の必要性について言及し始めた。未だに反対論も根強いとはいえ、インフレ・ターゲティングに対する好意的な論調も、以前よりは増えてきたように思われる。筆者のように、かねてからデフレの持つ弊害と、日銀がインフレ・ターゲティングを導入することの必要性を訴え続けてきた立場からすれば、ようやくここまで来たかの感が強い。同時に、このようなどん詰まりの状況にならない限り事態の本質に目を開こうとはしないメディアがあまりに多いことに、憤然とせざるを得ない。メディアの多くは、ついこの間までは、「銀行への公的資金注入に抵抗している柳沢伯夫・前金融相の首を切れば、不良債権処理進展の思惑から株価は上昇する」などと論じていたのである。

とはいえ、状況がいくら危機的であったとしても、インフレ・ターゲティングのような真の「デフレ対策」が直ちに実現されるようにも思われない。もちろん、筆者自身はそれを強く望んでいるが、残念ながらその可能性は低いと考えざるを得ない。何よりも、速水優・日銀総裁を筆頭に、日銀自身が、その導入の必要性、可能性を強く否定し続けている。また、メディアのこれまでの執拗な「良いデフレ=反インフレ・ターゲティング」キャンペーンによって、多くの人々の間に、「インフレを目標にするなどとんでもない」といった、インフレ・ターゲティングに対する感情的な反発が蔓延している。その感情は、戦争直後の高インフレを経験している世代には、とりわけ強い。

筆者が目の当たりにした、その典型的な実例は、作家の小林信彦氏によるエッセイ「立春と危険なアジテーター」である(連載「人生は51から」第201回、『週刊文春』2002年2月28日号)。小林氏はそこで、『論座』誌上で展開された、インフレ・ターゲティングをめぐる森永卓郎氏と木村剛氏の論争を取り上げている3)。そして、賛成派である森永卓郎氏を批判し、反対派である木村剛氏を称賛する立場から、自身の敗戦直後の「恐怖の体験=インフレ経験」について述べている。さらに、森永卓郎氏を自称(えせ)<エコノミスト>と断じている。筆者などから見れば、その著書『キャピタル・フライト―円が日本を見棄てる』(実業之日本社、2001年)などで「キャピタル・フライトによる円暴落、金利高騰、ハイパー・インフレの危機」を煽ってきた木村剛氏の方が、よほど「危険なアジテーター」なのであるが。

こうした反応は、ある年代以上の人々のそれとしては、きわめてありがちなものである。事実、「インフレ政策などとんでもない」といった内容の年輩者による投稿が、経済誌の「読者の声」などではしばしば散見される。

実際には、敗戦直後に人々がひもじかったのは、インフレのためではなく、単に「物が足りなかったため」である。しかし、インフレ体験のトラウマを持つ人々に、そのことを理解してもらうのは、なかなか難しいのかもしれない。

こうした個人的な体験に基づく「誤解」には、まだ同情の余地がある。許し難いのは、あからさまな誤謬を垂れ流していっこうに恥じることのない、一部のメディアの論調である。筆者がこれまで最も呆れかえったワースト・ワンは、『毎日新聞』2001年3月12日朝刊の社説「デフレ宣言 物価下落を止めてはならぬ」である。以下で、その一部を紹介しよう。

「最近の消費者物価を中心とした物価の低下は、輸入品の増大や技術進歩、流通
合理化などによるところが大きい。これまで割高といわれてきたサービス価格も
下がっている。経済の国際化や規制緩和などが進むなかで、新しい価格体系への
移行過程にある」
「ところが、月例経済報告は、デフレの定義を、物価下落を伴った景気後退から、継続的な物価下落に改め、一方的にデフレ宣言した。これは、形を変えた日本銀行への一段の量的金融緩和要求だ。経済政策の貧困さを露呈していると言わざるを得ない。物価はもっと下がっていい」

「最近まで日本の物価は国際的に高いことが問題であった。内外価格差である。物価が下がらないという硬直性も目立っていた。そこで、物価引き下げが政策目標であった」
「その意味では、ここ数年の動きは望ましいことなのだ。また、売れないものを売り切るバーゲンなどの努力も当然のことだ。消費者の間でも安くて、いいものを買うという行動が定着してきた。こうしたことが、どうしてデフレなのか」「この先、デフレ対策として、さらなる量的緩和を実施したとしても効果は期待できない。それどころか、構造改革を中断させることになってしまう」「いま、日本が陥っている危機は自ら招いたものだ。政府がデフレと認定した経済状況は、その過程にほかならない。人為的インフレ政策で物価を引き上げることで、国民経済全体に何の利益があるのか。債務者のみを視野に置いた政策は、消費者に損害を与えるだけだ」まさしく、一般物価と相対価格の区別さえ把握していない、典型的な「良いデフレ」論である。「もっと下がっていい」のは、人々の所得に対する財貨サービスの相対価格であって、一般物価ではない。逆にいえば、たとえ財貨サービスの絶対価格が上昇していても、すなわちインフレであっても、人々の名目所得がそれ以上に上昇していれば、少なくとも「消費者に損害を与える」ことにはならないのである。

さすがに現在では、おそらくこの『毎日新聞』も、「物価下落を止めてはならぬ」とまでは言わなくなっていると思う。しかし、少なくともごく最近までは、『毎日新聞』は、『朝日新聞』、『週刊東洋経済』などと並ぶ、反金融緩和派、反インフレ・ターゲティング派の急先鋒であった。

思えば、『毎日』、『朝日』の両新聞は、戦前の金解禁論争においても、「旧平価による金解禁=金本位制への復帰」を求める一大キャンペーンを行い、浜口雄幸内閣における蔵相・井上準之助の旧平価金解禁に道を拓き、日本経済を昭和恐慌へと導いた4)。少なくとも、その一翼を担っていた。経済音痴の遺伝子は、どうやら健在のようである。
ある意味でそれ以上に情けないのは、『週刊東洋経済』である。『東洋経済新報』は、金解禁論争においては、高橋亀吉、石橋湛山を擁して堂々たる旧平価金解禁論批判を展開した、輝かしい歴史を持つ。それが今では、経済の論理などは微塵も感じられない「世間知雑誌」に成り下がってしまっている。かつての見識と気概は、いったいどこにいってしまったのであろうか。

3この森永卓郎氏と木村剛氏の論争とは、森永卓郎氏の著書『日本経済「暗黙」の共謀者』(講談社、2001年)の中の木村剛批判への木村氏の反論である「森永卓郎さん、政策を語りなさい―徹底反論 実現可能性を欠くインフレターゲッティング論はその場凌ぎの『経済評論』にすぎない」(『論座』2002年3月号)と、それへの森永氏の再反論である「木村剛さん、不安を煽ってはいけない―再反論 デフレ阻止宣言と適切な資金供給管理でインフレターゲットは実現できる」(『論座』2002年4月号)のことである。

4高橋文利『経済報道―検証・金解禁からビッグバンまで』(中公新書、1998年)の第4章「金輸出解禁から再禁止まで」を参照のこと。


世間知としての反インフレ=親デフレ論

筆者は上で、専門家にとっての常識が一般社会の常識になるのにはタイムラグが存在すると述べたが、それは、このインフレ、デフレのとらえ方についても、ぴったりとあてはまる。多くの人々は明らかに、「デフレの弊害は大きくはなく、むしろ多少の利益があるが、インフレの害悪はきわめて大きい」と考えている。そうでなければ、メディアでの「良いデフレ」論の跳梁跋扈や、インフレ・ターゲティングへのヒステリーじみた拒否反応は説明できないからである。しかしこれは、専門家にとっての常識とはまったく異なる。というのは、少なくともマクロ経済学の専門家の多くは、「マイルドなインフレの弊害は大きくはなく、むしろ多少のインフレは必要でさえあるが、デフレはたとえマイルドでもその害悪はきわめて大きい」と考えているからである。
それでは、人々はなぜデフレを好み、インフレを忌み嫌うのであろうか。私見によれば、その主な理由は二つある。一つは、デフレやインフレがもたらす貨幣錯覚への無自覚である。そしてもう一つは、マクロ経済学的な因果関係に対する無知である。
人々は一般に、デフレ時には「得をした」、そしてインフレ時には「損をした」という錯覚に陥りがちである。それは、仮に名目所得が一定であれば、デフレは実質所得の増加を、そしてインフレはその減少を意味するからである。実際には、デフレ時には人々の名目所得は平均的には低下し、逆にインフレ時にはそれが上昇するのが常なのだが、人々の意識はなかなかそこには至らないのである。ある経済学者は、「労働者は自分の賃金の上昇は自分の仕事の当然の評価であるが、物価の上昇は不公正なものと信じやすい」と述べているが、けだし名言である。

実は、そのことは、上で紹介した小林信彦氏の「恐怖の体験=インフレ経験」についてもあてはまる。確かに、敗戦直後の日本の経済状況は、混乱をきわめたものであったに違いない。とはいえ、人々はその時でさえも、必ずしも「インフレによって貧しくなった」わけではない。たとえば、1950年前後の消費者物価上昇率は約15%と確かに高いが、名目経済成長率は30〜40%にも達しており、結果として15%くらいの実質経済成長が達成されている。あるいは、小林氏の所得はこの時にもそう大きくは増えなかったのかもしれない。しかし、少なくとも人々の平均的な所得は、その間に大きく増加していたのである。それに対して、デフレ下で実質経済成長率のマイナスが続いている現在の日本では、人々は平均的には確実に貧しくなっているのである。

要するに、所得の実質的な変化は物価と名目所得の両方に依存するにもかかわらず、人々の意識は物価にのみ集まってしまうために、「デフレは得でインフレは損」という錯覚が生じるのである。この2〜3年に、メディアや一部論者によって盛んに吹聴されてきた「良いデフレ」論も、その錯覚の産物の一つである。

もう一つの問題は、「デフレが進む中では失業は増える以外にはなく、実質所得は減る以外にはない」という、ごく単純なマクロ経済学的真実が、一般にはほとんど理解されていないという点である。総需要・総供給分析のようなマクロ経済学の初歩的分析枠組みによれば、物価の下落と失業の増加および所得の減少は、完全雇用総供給に対する総需要の不足、すなわちデフレ・ギャップが拡大したときに生じる。したがって、デフレの進行と失業の拡大は、いわば不即不離の関係にある。実際、物価上昇率と失業率の間には、統計的にも明確な負の相関関係がある。この事実は、古くから「フィリップス・カ−ブ」という名で知られている。

残念ながら、このような経済学の初歩的な「常識」は、「世間知」に対してはほとんど影響を与えていない。筆者がその事実を痛感したのは、ある労組系研究所での勉強会においてである。筆者がそこで見た「政策要求案」には、「賃下げ阻止」や「雇用放棄阻止」とともに、「家計を苦しめるゼロ金利の速やかな解除」が謳われていた。筆者は、それを見てしまったからには、職業倫理上、看過するわけにはいかなかった。そして結局、「ゼロ金利を解除するということは、デフレを現在以上に進行させるということである。デフレが進む中では企業の名目収益は低下する以外にはないから、企業が倒産を避けるためには、賃下げか首切りかの選択を労働者に迫る以外にはなくなる」という点を、くどくどと説明するはめになった。

要するに、雇用問題の最前線に位置する労組のような組織でさえ、「何が企業の雇用放棄=労働者の首切りをもたらしているのか」についての経済学的な把握を欠いているのである。その結果、自らの首を絞めることにつながるような行動を、そうとは知らずに行っているのである。

同じことは、インフレ・ターゲティングに反対し、「良いデフレ」論を吹聴している多くのエコノミストたちについてもいえる。この立場のエコノミストは、銀行や生保などの金融機関ないしはその系列のシンクタンクに属していることが多い。考えてみれば、これはきわめて不思議なことである。というのは、デフレが続く限り、銀行や生保の収益が悪化する以外にないことは、どう考えても自明だからである。事実、銀行や生保の「経営危機」問題は、ここ数年の経済メディアの格好の「ネタ」となっている。このエコノミストたちは、単に無知なだけなのであろうか、それとも「悪人」なのだろうか。

もう一つの可能性

筆者は最近、上述のような「無知」アプローチではなく、もう一つの「利害」アプローチの重要性をますます痛感するようになっている。というのは、デフレを称揚するエコノミストたちの利害がどうであれ、ある階層の人々にとっては、「デフレは得でインフレは損」は、単なる錯覚ではない明確な真実だからである。
最も顕著なのは、「インフレ時には物価スライド制が適用されるが、デフレ下ではそれが適用されない年金生活者」である。このケースでは、インフレ下では所得が物価と並行して動くために実質所得は一定になるが、デフレ下では物価が下落すればするほど実質所得は増える。ほぼ同じことは、「解雇や賃金切り下げの可能性のない公務員」についても言える。このような立場の人々にとっては、インフレよりもデフレの方がはるかに望ましいのは明らかである。
しかし実は、「まだ首にはなっていない勤労者」についても、多少はそれに近いことが言える。上述のように、デフレ時には人々の平均的な名目所得は低下しがちになる。とはいえ、その変動の分布は決して一様ではない。名目賃金には下方硬直性があるから、大多数の人々の賃金は、デフレ下でも物価ほどは下落しない。しかしながら、収益の低下に直面した企業は雇用を減少させるしかないから、職を失い所得を失う勤労者は確実に増える。つまり、デフレ経済においては、所得を完全に失った人々が拡大する一方で、幸運にも失職の憂き目に会わなかった大多数の人々の実質所得は、むしろ上昇する可能性がある。
以上のことは、いくら経済学者が「デフレの弊害」を説こうとも、人々が依然としてデフレよりもむしろインフレを厭うことの理由の一部を説明するかもれない。日本の失業率が以前よりも高くなったとはいっても、多くの家計にとっては、しょせんは「人ごと」にすぎない。おそらく、それが人ごとではなくなるのは、失業率が十%を超えるくらいにまで上昇して、それが多くの人々にとってきわめて身近なものになってきたときであろう。逆にいえば、そこまで行かない限り、人々は依然としてインフレよりもデフレを選好するのかもしれない。
実はこのことは、多数決を基本原則とする民主主義社会においては、「国民全体の経済厚生からみて最も望ましい経済政策」が、「多数派の利益」のために実現されない可能性があるという、きわめてやっかいな問題を提起している。こうした事態が民主主義社会においてもしばしば生じうることは、社会的少数派に対する扱いなどを見れば明らかである。
重要なのは、この状況は、「人々の利害に訴える」ことによっては決して改善されないという点である。デフレによる経済的損失が社会のごく一部に集中し、その他の人々はむしろそこから利益を得ているのだとすれば、「大多数の人々」がインフレよりもデフレを好むのは、きわめて当然である。その場合、「国民全体の観点からみて最も望ましいマクロ政策」の実現のためには、非自発的失業の拡大が放置されているような社会は、単に労働を無為に遊休させているという意味で非効率であるだけではなく、言葉の真の意味で不公正であるということを人々に訴える必要がある。つまり、人々の利害にではなく、倫理に訴える必要がある。
多少大げさにいえば、インフレ・ターゲティングを通じた「デフレ阻止」が実
現されるか否かは、われわれの社会が、他人の痛みを自らの満足と感じ、他人の
満足を自らの痛みと感じる人々が多数を占める社会ではなく、他人の痛みを自ら
の痛みとして、他人の満足を自らの満足として感じるような、アダム・スミスの
いう「共感」に満ちた社会であるか否かにかかっている。ところが現実には、リ
ストラされて再就職のあてのない中高年層の自殺がこれだけ増えているにもかか
わらず、そのような立場の人々に対する社会の眼差しは、冷淡というよりも冷笑
的でさえある。逆に、「バブルに踊った企業や銀行の経営者たちを無罪放免すべ
きではない」ことを根拠にした景気対策不要論は、きわめて根強い。人々が小泉
内閣のスローガンである「痛みに耐える構造改革」にあれだけ熱狂したのも、多
くの人々が、その「痛み」を味わうことになるのは「自分とは別の誰か」と考え
たからかもしれない。残念ながら、われわれの社会とは、他人の「いい思い」に
は厳しく、他人の不幸には寛容な社会のようである。

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