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『【「近代」から一歩先を見据えて】 「利潤なき経済社会」に生きる 〈その1〉』
( http://asyura.com/2002/hasan13/msg/386.html )
『【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」の“経済論理” 〈その3〉』
( http://asyura.com/2002/hasan13/msg/948.html )
『【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」における市場と競争 − 「近代的市場」とは何か − 〈その4〉』
( http://asyura.com/2002/hasan14/msg/910.html )
に続くものです。
〈その1〉の補足的な書き込みとして次のものがあります。
『【「利潤なき経済社会」を生きる】 「利潤なき経済社会」とは − 「匿名希望」氏の問いに答える − 〈その2〉』
( http://asyura.com/2002/hasan13/msg/652.html )
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■ 「近代経済システム」における競争
競争原理こそが歴史の進歩や経済社会の活力を支えるものであると主張する論も後を絶たない。
私的所有を基礎とした社会的分業が「近代的市場原理」であるとしたら、その交換過程を通じて利潤をより多く獲得する仕組みが「近代的競争原理」である。
「近代的競争原理」に対する“原理的”批判は、利潤が得られない経済社会では「近代的競争原理」がその機能を果たすことはできないという一言になる。
自分(自社)がより多くの利潤を得るということを動機とした競争である限り、利潤が得られない経済社会において「競争原理」が有効に機能しないのは自明であろう。
競争原理重視者の主張をこれまでの歴史過程における国民経済発展の説明として認めるとしても、利潤が得られなくなった経済社会(歴史段階)になりながら「近代的競争原理」に固執するなら、歴史の進歩が滞り経済社会の活力が喪失することになるという逆説が成立する。
そして、「近代的競争原理」が有効なものであるとの主張を続けたいのなら、それが有効に機能する唯一の条件である“利潤獲得可能性”が、今後も国民経済の疲弊や沈滞を生じさせないかたちで存続することを論理的に説明しなければならない。
国際的な“通貨の移転”のみが国民経済すなわち経済主体の“真の利潤”になり得るものであり、閉じた国民経済内の“通貨の移転”で生じる利潤は、再投資ないし消費で資本化されない限り、国民経済を縮小させるという自説を覆さなければならない。
利潤が得られない条件で「近代的競争原理」の貫徹を認めれば、資本化されない“通貨の移転”がはびこり、国民経済を疲弊させるだけである。
進歩史観を否定し経済活力も超歴史的に重視しているわけではないが、「競争原理」が近代すなわち現代の発展及び国民生活向上の原動力であると思念する人たちは、無自覚でありながら、経済社会の活力を劣化させ、国民生活の悪化をさせることに手を貸しているのである。
歴史の発展や経済社会の活力を善と考える立場なら、「近代的競争原理」がそのような役割を担えないという現実をこそ認識すべきである。
■ 現代の市場と競争
現代の市場は、経済主体の寡占化のなかで、需要予測が正しかったかどうかを問う“場”へと変容している。
主体が国家官僚機構ではなく個々の経済主体が抱える“官僚”であるという違いはあるが、大半は「計画経営」(計画経済)の可否が問われていると言っても過言ではないだろう。
固定資本(設備投資)が巨大化した現代における競争原理は、一般的には極めて緩やかにしか機能しておらず、既存巨大経済主体が成長商品のシェアを巡って争う携帯電話事業などにしかも期間限定で激しく行われるだけである。(その結果は、日本でも間もなく現出すると予測しているが、欧州で顕著に見られる過剰債務問題である)
競争原理は、「労働価値」(=生産性)を上昇させる原動力ではあるが、市場原理と同じく、それ自体が利潤を生むわけではない。
生産財や汎用財であれば「労働価値」が相対的に高い経済主体は、他の経済主体よりも多く通貨移転的利潤を得ることができるだけであり、それが国際的なものであれば、国民経済を疲弊させない真の利潤となる。
「近代的競争原理」は、利潤獲得の勝ち負けを競うものだから、財や用役の価格を下げる効果はあるとしても歴史的には寡占化を推し進める働きをし、価格も寡占的レベルで硬直化するようになる。(利潤獲得競争であれば、できるだけ価格を上げることが最良の手段である)
そして、厖大な設備投資と全国や世界といった市場を基礎的な条件として競争するのであれば、設備投資を既に済ませ市場認知力も獲得している先行経済主体が有利であるのは自明である。
財の品質や機能よりも提供する経済主体に対するイメージやデザインが購買決定に占める割合が高まった消費財市場も、後発経済主体の競争条件を苦しいものにしている。
さらに、競争原理のメリットである「労働価値」(=生産性)の上昇は、必要な活動力の減少を意味するから、需要が期待できる新しい財や用役の供給が生まれなければ、失業者の増加要因となり、供給=需要の原理から国民経済は縮小再生産に陥っていく。
「計画経営」は、拡大とは言わないまでも単純再生産が可能な国民経済状況でなければ通用しない。
「デフレ不況」という縮小再生産を強いる経済状況は、「計画経営」を危うくする。
それは、生産設備として固定化される資本比率の高度化が、供給量変更の即応性を妨げているからである。(賃金・給与の下方硬直性は解消できるとしても、この問題は解消できない)
生産従事者や原材料は調整できるとしても、長期固定資本である生産設備を調整することは容易ではない。
債務で購入された生産設備であれば、債務の履行のためにはなんとか一定水準を保って稼働させなければならない。そして、それが不能になれば、破綻することになる。
また、極めて緩やかとはいえ競争条件にあれば、供給量変更(生産調整)はシェア減少のきっかけになる可能性がある。(そのために、企業合同やカルテルによる設備廃棄が志向される)
90年代中盤の半導体メモリの生産調整がどのような末路につながったかを思い返せばわかる。半導体メモリの国際競争力低下は、現在の「デフレ不況」の一因でもある。
市場原理が前述した内容で有効に機能しているとしても、「デフレ不況」であれば、多くの経済主体が市場原理に痛みつけられることになる。
そして、その痛みをもろに受けるのは生身の人間で、さらに言えば、資本どころか預貯金もさして持たず自己の活動力しか保有していない人々や国家的サポートを受けられない中小企業の経営者である。
率直に言って、人々が知恵を絞り活動力を傾けて生産した生産設備が過剰になったり、それによって生産される財を欲している人たちがいるのにそれを生産する人たちが失業したり、これまでそして現在も経済活動に従事している人たちが自分のリタイア後に不安を抱いたりしている状況を見ていながら、「市場原理こそが救済の道である」と語る統治者や専門家の精神は、正常な思考力を失っているか、狂気に犯されているかだと断じざるを得ない。
そのような状況自体、市場原理が生み出したものであり、共産主義など他の原理や論理が生み出したわけではないのだから...。
百歩譲って、これまでは、景気循環で起きたものであり、解消もされてきたではないかという主張を認めよう。
(そのような主張に対しても、そのような景気循環が起きる経済システムを善とする判断力を疑わざるを得ないのだが...)
90年のバブル崩壊後の日本を「失われた10年」と呼ぶそうだが、その間ずっと市場原理を唱え続けてきたのである。
郵政事業を民営化し、道路公団を民営化し、福祉・医療事業への参入も自由に認め、タクシー事業も自由化し、農業の株式会社経営を認め、酒屋もたばこ屋も自由に開業できるなど、巷間言われている民営化と規制緩和を全てやったとしても、「失われた時代」が終わるわけではない。
くどくどと説明しなくとも、福祉・医療関連事業を除けば、供給が不足しているわけではないからの一言で終わる。
(福祉・医療事業は社会政策が絡むものであり、社会政策の国庫負担を軽減しようとしているなかでは、需要があるとしても、現実の需要拡大は望めない)
高速道路も、新規路線は採算が合わないと言われているくらいだから、市場原理に従えば、供給不足ではない。料金値下げというアイデアもあるそうだが、意地悪く言えば、現状でそれをやっても、デフレを悪化させるだけである。
(私は、市場原理主義者ではないから、交通体系や財政との見合いで必要と思われる高速道路は建設していけばよいと考えているし、しかるべき条件になれば、通行料を無料にすべきだと思っている)
供給が不足していない財や用役を追加的に供給する新たな経済主体が現れたら、市場原理によって、どのような経済状況になるかは自明である。
既に存在する財や用役を新たな供給する経済主体は価格を下げなければ参入ができない、そうであれば、受けて立つ旧来の供給主体も、シェアを落とさないよう価格競争で対応することになる。
価格が下がって需要量が拡大したとしても、単価×需要量で算出される需要が、従来の供需要(=供給)を上回らない限り、経済を拡大させることはない。
新規参入で価格を下げなければならなくなった旧来の供給主体は、利益もしくは経費を削ることになる。設備的経費は下げにくいから、人件費が対象となるだろう。
供給が拡散しただけで終わればいいが、売上が分散する結果、需要が少々拡大しても、借り入れをしている経済主体が破綻することもある。そして、それが、さらなる不良債権の増加につながる。(このような推移は、今後の携帯電話事業を眺めていればわかることになる)
規制緩和による新規参入が、一時的な供給=需要の増加にはなったり、金融活動を利するとしても、長期的な供給=需要にはならないことや価格下落事象も短期的で終わることは、米国の航空規制緩和の顛末を見ればわかるはずである。
(新規参入企業の株式をはやされているなかで売却した人は儲け、購入した人は売り時を逃すと紙切れ同然の株式を保有することになる。“直接金融”は特定層が利益を上げられる様々な詐欺的仕掛けを行いやすいものである)
民営化や株式会社参入による効率化も、需要(財の物理的需要量ではなく通貨量)が増加しないのであれば、供給の減少によってしか実現されない。
これまで100人でやってきた仕事を90人でこなすという手法になるであろう。(存在意義をはるかに超えた報酬をカットすることであれば問題ないが、多くの場合、受取人が変わるとしてもそのようなことは行われないものだ)
このようなかたちでの供給削減は、国民経済的に見れば、需要の減少となる。
この需要減少を補うためには、効率化を果たした企業が利益として得た分を使うか(投資・消費はたまた配当を得た株主や税収を増やした政府部門が使うことでも可)、国家が効率化の大義で減らした供給分をその経済主体から吸い上げて使わなければならない。
市場原理だからこそ、民営化や規制緩和といった政策は、「デフレ不況」を悪化させるだけで、「デフレ不況」を解消することはないのである。