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先日NHKの番組で、山口県のある小都市で菓子店を開業した素人夫婦に、地元の銀行が無担保で資金を貸した話が紹介されていた。「地域経済の活性化に役立ちたい」という銀行側のコメントがあった。規模は小さいながら、気持のよい話だ。何十年の伝統があり、業績もよい企業なら銀行が無担保で融資する例は多いが、名もない一市民の新規事業に担保なしで融資する例は珍しい。だが、これが本来の金融機関のあり方であり、常識なのだ。事業の内容、業績の見通し、経営者の能力、人柄などに見込みがあれば、担保など取らなくても貸す。逆に事業の発展性に危惧があれば、たとえ借り手が資産を多く保有していようとも融資の対象にはならない。担保はあくまで担保に過ぎない。したがって銀行マンたる者は、失敗しないためには企業人以上の努力が必要だ。市場動向、経済変動の見極めはむろんだが、経営者の性格や人間を判断する眼力、さらにはグローバルな経済の流れや歴史への洞察、文明論を語れるほどの識見や教養が要求される。だから銀行は、もっぱら一流大学のエリートを採用するのではないか。ところが、この常識は戦後まもなく放棄された。担保さえあればよいと安易な融資を拡大させてきた。しかも担保は変動性の高い不動産や株だ。それでも最初は土地の実質価格の25%までしか貸さなかったと思う。それが目一杯貸すようになり、さらにバブル期に向かっては実勢価格を超える法外な融資も行なわれた。融資先の審査など無きに等しい状態だった。こうした土地や株に依存した銀行経営が、異常景気が終わると破綻するのは当然だった。不良債権はあくまで銀行の責任である。ところが頭取以下幹部は責任を取らない。かつての大銀行では、融資を焦げ付かせた担当者は左遷されたりしたものだ。今は銀行ぐるみ、業界ぐるみ。「赤信号、みんなで渡れば」の感覚に違いない。
日銀理事だった故五十嵐虎雄氏は、昔の山一証券の日銀特融に対して「日銀のすることじゃない」と激怒し、日銀総裁を怒鳴りつけたといわれる人だが、彼は日ごろ「民間銀行はブローカーに過ぎない」と言っていた。たしかに、金を右から左へ動かしているブローカーに過ぎない。その収入はいわば不労所得だ。ATMという機械で利用者が払い戻しや振込みをするたびに多額の手数料を取ることが象徴、いや実証している。その銀行を、日銀が株を買い取ってまで救済しようとしている。経済のことはあまり詳しくないが、政府が民間銀行の不良債権をしゃにむに処理しようとするのはなぜか。金融システムの保護と言えば聞こえはよいが、銀行の責任を回避させるだけではないのか。アメリカの言い分に従っているだけにも見える。銀行に責任を取らせ、倒産させるべきは倒産させるのが筋だ。銀行の数は多すぎる。単なるブローカーなら必要ない。