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(回答先: 【「利潤なき経済社会」に生きる】 「利潤なき経済社会」の“経済論理” 〈その3〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 9 月 10 日 00:09:44)
自ら投稿終了宣言を発し、その舌の根も乾かぬうちに恥ずかしい話ですが、貴殿の力作に触発され、コメントを発したくなりました。
貴殿の深い思索と一文一文に凝集された密度の濃い内容には溜め息が出ます。しかもそのアイデアは歴史的事実に根ざしつつも極めてオリジナルでユニークだ。大袈裟ではなく、このような水準の同時代人が民間に存在することに驚嘆しています。
本来ならば、同じ時間だけもがき苦しんで得られた結論のみを投稿するのが礼儀で、脳裏に浮かんだヨシナシゴトを数分で書きなぐるなど言語道断の所業ですが、敢えてコメントしたいと思います。
貴殿の描く「利潤なき経済社会」は、ある面では理想として描かれ、また他面では歴史の必然的帰結として描かれ、大変に興味深いものです。私の理想とする経済社会とも重なり合う部分が相当あります。その意味でも今後の貴殿の健筆に期待したいところです。
マックス・ウエーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を著し、資本主義社会のドライビング・フォースの所在を明らかにしたことはご存知の通りです(私自身はあの論説には幾分フィクションも混じっていると評価していますが)。それと同じような理論的根拠が貴殿の論説にも求められると感じます。平たく言うと、その「利潤なき経済社会」を突き動かす根源的な力は何なのか、どうしてそのような社会が安定して継続しうるのか、と言う事です。
マルクシズムは、その誕生した19世紀中葉(共産党宣言が1848年あたりでしたか)からほぼ1世紀強にわたり、力を持ち、実際問題としても有効であり続けました。現実に存在する社会の矛盾に対する有効な理論と実践法を提供しえたからです。しかし、かの世紀の哲人マルクスですら、来る共産主義社会が必然的に孕む諸問題までは見渡す事ができませんでした。冷酷な言い方をすると、人間とは、組織とは、社会とは何かという問題に対してマルクスは正確な洞察と解答を出し得なかったということです。
貴殿のモデルとする経済社会についても、必然的にそこへ至るという経路を明確にしつつ、その社会の論理と人間本来の性(さが)の親和性や疎遠性につき議論が深まると良いと思います。予言めいた言い方で恐縮ですが、私は人々とそのような未来社会との間に新たな法律や制度(即ち国家の介在による人工的な枠組)が不可避的に必要になると思います。と、言うよりもそうした法律なり制度なりを正統化する新たな思想の確立が求められると考えると言った方が正確でしょう。
矛盾をあまりにも増大させ過ぎた日本経済は何らかの形で大きな犠牲を伴った清算を強いられる、逆説的だが自ら捨て身になって犠牲を受け入れた時に未来への一条の光が差し込む、というのが私の持論ですが、貴殿から「日本だけが自虐的改革路線に入るのではなく、世界同時に同じ問題の解決過程に入ることになるのを待ってはどうか」というサジェスチョンには、正直申し上げて目から鱗が落ちる思いでした。恥ずかしながら、そういう視点は過去の私には皆無でした。