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●議員辞職でも逃れられない起訴
田中真紀子前外相の議員辞職について特別な驚きはない。本人にしてみれば、逮捕から逃れるため、情状に訴えることで一種の“司法取引き”をしたつもりなのだろう。しかし、結論を言えば、検察がこれによって捜査を中止することはあり得ない。逮捕はともかく、起訴を免れることはできないだろう。父・角栄氏に続いて自らも収監される可能性は依然残っているのである。
また本人は議員辞職によって証人喚問など国会での追及がかわせると考えているようだが、先月の衆院政治倫理審査会で民主党議員が示した「新証拠」の疑惑などは全く晴れておらず、辞職によって相殺されるような種類の話ではない。最近の例でも社民党の辻元清美前政審会長は議員辞職後に国会へ参考人として呼ばれており、政局的にさらに重要性が増した10月27日の統一補欠選挙を控え、野党がみすみす与党攻撃のチャンスを見逃す訳がない。
また、補選に田中氏の長男、雄一郎氏の擁立がとりざたされているが、これもまずないと見る。かつての越山会などの後援会にその期待感が高まっているのは事実だろうが、本人の極めて利己的な性格からして、いったんは引いた後の復権を必ず考えているだろう。一つには逮捕後の選挙でぶっちぎりのトップ当選を果たした父親のことが頭にあろうし、肝心の長男が、仮に当選しても国会で後ろ指さされるような状況でのこのこ出てくることは想定しにくい。補選ではなく総選挙なら、収監されているなどよほど特別な理由がない限り、必ず本人が出てくると断言してもいい。
●本来、国会議員になるべきでなかった
議員辞職後も、かつて側近だった平沢勝栄議員や一部のTVキャスターは「田中氏の行動は功罪相半ば」などと言っているが、一体どこに「功」があったというのか。民主主義とは全く相容れない独善的行動しかとれない人物は本来、国会議員のような公職に就くべきではなかったのである。あのヒステリー性の性格では人の意見をまともに聴くことなどできない。
その原因として、甘やすだけ甘やかした父親の責任は免れないであろう。本人自身も本気で国会議員になりたいのなら、それなりの努力、修練が必要だった。にもかかわらず彼女は小さい頃から父親に頭を下げる人間しか見てこなかったし、本人にとっても国民にとっても不幸なことは、これが「政治」だと思ってしまったことである。つまり何の勉強もせず、人の話も聞かず、怒鳴りちらしてさえいれば、相手の方が勝手に頭を下げてくれる。このことによって“政治”は粛々と行われると勘違いした、と言っていい。
●外務省を破壊、混乱させただけ
「政治とカネ」の問題をめぐって4人もの議員が辞職に追い込まれるという今年前半の異常な出来事はいずれ戦後政治史に特筆されるだろう。しかし、その中にあっても田中氏の「功」が書かれることはあり得ず、その特異な性格が政治家の精神分析の対象として取り上げられるだけだろう。
同氏の「功」として、外務省改革を指摘する人もいるが、彼女は何ら外務省改革で実績を残さなかったし、また真剣にそれを進めようともしなかった。あるのはテレビカメラの前での演技だけである。彼女の性格からして地道で面倒臭い外務省改革などに神経を集中できるはずもなかった。あったのは「混乱」と「破壊」だけである。もちろん「創造」の前には「破壊」が必要との議論もあろうが、田中氏にとって日本外交の再建や創造などは恐らく想像もできない範ちゅうに属したであろう。その結果、外務省という組織には修復しがたい「疑心暗鬼」と「相互不信」という大きな傷だけが残った。ちなみに鈴木宗男氏の件は全く別物である。田中氏がいたから、鈴木氏が放逐されたわけではない。
●テレビ局が求めたのは「芸人」としての発言だけ
では、これだけ欠陥が明らかな田中氏がなぜ世間でもてはやされ、短期間に科学技術庁長官と外相という要職に就くことができたのか。そこに彼女の特異なキャラクターに目をつけ、利用しようとしたテレビ局や週刊誌、そして一部政治家の存在がある。将来首相を目指すような議員は歴史や国際情勢を学ぶとともに、冷静な洞察力が不可欠だが、田中氏にはそのいずれもなかった。逆にテレビ局にはそんなものは邪魔でしかなく、単に当意即妙な面白いことを言い、カメラの前でパフォーマンスしてくれさえすればよかった。
国民的人気のあった「元宰相の娘」という背景はあるのだから、発言が例え的外れで、政治の本質とは何の関係がなくても構わなかった。要するに彼女に求められていたのは政治家としての「実像」ではなく「虚像」の部分であり、もっと言えば「TV芸人」的面白さである。持ち上げる時はこれでもかと持ち上げるが、いったん落ち目になれば、今度はとことん叩いて「数字」を稼ごうとする。要は「使い捨て芸人」である。こうしたことは政治家本来の在り方とは何ら関係がないだけではなく、地道に努力している多くの同僚にとって有害ですらあった。
●“モンスター化”は本人、テレビ、大衆、一部政治家による合作
では、国民はなぜこういう人物を一時期にしろ「将来の首相」などともてはやしたのだろうか。それは恐らく現代社会の深刻な閉塞状況と無関係ではあり得ない。将来に対する不安ばかりが横溢する現代にあって、大衆がこうした体制に風穴を開けてくれそうな期待を一瞬でもしたことは間違いないだろう。そのバックに父・角栄氏の幻影が見えていた。その一見して鋭い彼女の舌鋒は父親と二重写しとなり、やがて「何かやってくれそうだ」との「角栄再来」を願う大衆の見果てぬ夢となった。この傾向を異常にまで増幅したのが前出のテレビであり、また父親に世話になった古い政治家たちだった。そうでなければ、真紀子氏程度の素養しかない政治家がたった当選1回や3回で2度も閣僚を務められるはずもない。しかし、そのことが本人に「私は特別な存在」との、とんでもない勘違いをさせる原因ともなった。つまり、この“モンスター”のような田中真紀子という存在は本人と父親、テレビ局、大衆、政治家による合作なのである。その意味では本人も一種の被害者という見方もできなくはない。
●倒すべき相手が父であり自分だった“悲劇”
田中真紀子氏が外相になったばかりの頃、「人間には家族と敵と使用人しかいない」と言ったのはある種名言である。その分類からすると、父が脳硬塞で倒れる原因となった田中派分裂の首謀者、竹下登氏は何にも増して憎い「敵」であり、これにつながる歴代政権、あるいは自民党主流派は許す事のできない存在である。その点、長年「打倒、田中政治」を目指してきた小泉純一郎首相と息がぴったり合ったのは自然の成り行きだった。しかし、その倒すべき「田中政治」の張本人は自分の父親であり、自ら政治家として目指す目標が往々にして父親の実績そのものであったところに非常なアイロニーがある。つまり、彼女が打倒しようとした相手は実の父親であり、それと顔も声も考えもそっくりウリ二つの自分であったところに田中真紀子という存在のパラドックスと悲劇性がある。
(政治アナリスト 北 光一)