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T 社会資本の地域格差
いま、構造改革論議の目玉の一つとして都市再生が俎上に上っている。大都市、この場合は明らかに、東京への集中した公共投資の必要性が論点である。その理由として東京都には地方交付税の配布が行われず、国からの投資が地方と比べて取り残された状態にある。地方に不採算の高速道路ばかりを建設している国のあり方はおかしい、もっと投資効率を考えて大都市に公共投資を優先すべきであるという議論である。日本経済の現在の低迷は、地元利益誘導と官僚主導の政治に基づく、地方へのばらまき公共事業が原因であり「均衡ある国土の発展を」というスローガンを廃止し「均衡ある国民生活の向上を目指すべきなのだ」と訴えている。誤った政策のせいで、東京は国際競争力をどんどん失っており金融市場における経済の中心性という点ではロンドン・ニューヨークの次にくるべきはずなのに、今では香港にその地位を脅かされているという。日本経済の活力を取り戻すためには「都市再生」が切り札である、という論議である。
この論議をいちど冷静に分析してみたい。
経済学上の正確なデータに基づき、本当に東京に投資が少ないのか地方に偏って公共工事が行われているのか、そして「都市再生論」に基づいた投資が本当に日本経済活性の切り札になるのか分析してみる必要がある。
まず、マクロ経済学的な地域間格差、つまり行政単位である各都道府県別のストックに絞り込んで調査してみよう。SNAのデータから、都道府県別の総資本形成を住民一人あたりで比較してみた。(資料@A)平成2年の順位と平成10年両方とも順位は中間の変動は多少あるものの、ワースト1の奈良県とベスト1の東京都だけは変わらない。奈良県は一人あたりの総資本形成において、少なくともここ10年最下位の地位にいる。社会資本ストックが最も少ない県であり、全国平均の2/3にも届かない。最も多い東京都の半分以下である。いったいこの格差はどういうことなのだろう?ワースト2位の埼玉県もそうだが、大都市圏のすぐそばにあって、人口の増加を一手に引き受けたにもかかわらず、政策の恩恵を受けることなく放置されてきた地域にこそ、むしろこのゆがみのほうが激しいと言えそうである。少なくとも、マクロデータから見る限り東京は、おいてけぼりをくっている地域とは言い難い。果たして現在の「都市再生論」というようなキャッチコピーで資本を集中させることが、本当に日本経済の活性化につながるのであろうか?
U 東京への投資
Tでふれたように、住民一人あたりの総資本形成額という点において明らかに東京は恵まれている。では、石原都知事やマスメディアが言うように東京都に対する国の投資額は低く、地方に偏っているのであろうか?
まず、法人住民税の問題がある。東京都には日本全国の大企業の本社の8割が集中する。しかも、関西圏の商社系を中心に本社機能を東京へ移転するもの着実に増えている。それらが都に落とす法人住民税は企業が日本中いや、世界中で経済活動を行いかき集めた富の固まりであり、この恩恵を東京都は独占している。もし、東京都が地方交付税を受け取るというならば、法人住民税制度を廃止して全額を国に納める事とすべきである。そうやって初めて東京都は全国の地方自治体と同列の立場で論議ができるであろう。明らかな税のゆがみと富の偏在の問題を見過ごしてはならないのである。
では、国からの支出においてはどうであろうか?同じ手法で、政府の最終支出をSNAのデータから加工してみた。住民一人あたりでみると、政府最終支出に関してもメディアの報道とは異なり、東京が国から受ける恩恵はやはり、日本一高い。(資料のBC)
平成2年度では、平均の1.6倍、最も少ない埼玉県の2.2倍の恩恵を国から受けているである。しかも、直近の平成10年度では、埼玉県との格差は逆に2.3倍と広がっているのである。
都道府県別完成工事高(資料D)についてもランキングを作成してみた。140兆円の工事完工高は、建設業の生産額三年分に匹敵する。これは年度をまたいだ長期工事が多いために起こることであるが、GDPとの比較値において完全に整合性がとれているとは言えないが、ほぼ日本の建設業及び民間・公共の事業投資を反映している。ここでも一際目を引くのは東京の完工工事高の金額の大きさである。
一人あたり340万円もの工事をこの狭い東京で毎年建設しているという現実をもっと真摯にとらえなくてはならない。これらのデータから、住民一人あたりの格差がひろがっており報道で言われるように豊かな地方・貧しい東京ではないということだ。この表からみると、埼玉県と東京との開きは実に10倍に達している。また、Tでふれた奈良県とも、6倍の開きがある。おそらくこれらの自治体の間は、一つの国土に二つの国民が存在するほどのサービスにおける格差が広がっている。
この統計には土地取引は含まれていないので、地価に責任を負わせることはできない。純粋に日本の建設工事を通じて行われる投資の実体であり、投資額全体の29%が東京圏に注ぎ込まれている。もし、メディアが言うような高速道路や空港の問題が存在するとすれば、それは金額の少ないことや割り当ての問題なのではなく、投資におけるプライオリティと、都市をどのようにグランドデザインするのかという構想力の問題なのである。国の話ではなく、都政の問題なのである。
巷間に言われるように東京への投資がけっして少ない訳ではないことが、以上のデータから明らかになった。むしろ公的セクターにおいても民間部門においても家計部門においても圧倒的な投資を受け入れている地域であるということだ。そして、例え「都市再生論」に乗っかって、東京に投資を集中させても経済活性は起こらない、それどころか尚いっそうの資本の浪費が起こり、投資は蓄積されず霧散してしまうかもしれないのだ。次章以降において、資本の劣化という問題について考察してみたい。
V IT革命の本当にもたらす意味
昨年度半ばから、アメリカの株価下落が激しい。ナスダックはほぼ1/4となり、ダウ工業指数もピーク時から80%に落ちている。ITバブルがはじけたのである。いったい、IT革命とは何だったのだろうか。
97年の日銀の金融研究所によるワークショップ「コンセプチュアライゼーションを巡って」という討論でエコノミストたちはすでに Productivity Paradoxに気づいている。 http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/fkinyu97.html
コンセプチュアライゼーション(情報通信の技術革新の下で、知識や情報といった無形で知的な価値が経済活動に与えうる影響が増大し、それによって実体経済や金融構造が変化すること)の進展にもかかわらず、マクロ経済の生産性は期待したほど上昇していないのである。にもかかわらず97年以降も、株を中心として資産価格は上昇し続けるがインフレは起こらないという事が続いてきた。これが、アメリカの成長の神話であり、グリーンスパンの名をとどろかせた。 コンセプチュアライゼーションについてもう少し考えてみよう。例えば知的生産活動を行う人間にとって、秘書を一人採用するか能力の高いパソコンを購入するかは、難しい選択であった。つまり、ここには労働と資本の間の代替性が存在する。そして、マシンの能力向上は秘書二人分三人分の生産性上昇につながるはずである。しかも、年々技術は向上しており、少なくともこの10年知的生産従事者にとって生産性効率は良くなっているはずである。(実際筆者はこのレポートのデータをネットから、内閣府経済社会総合研究所や日銀の金融経済研究所のHPにアクセスし、ダウンロードして簡単に手に入れることができた。)
これがコンセプチュアライゼーションの経済に果たす役割である。この考えがアメリカの株価をリードした。しかし、異常なまでもの設備投資や株価の上昇にもかかわらず、それに見合うべき生産性の上昇が起きてはいない。そのパラドックスについて、タイムラグ説や統計不備説など様々な議論が、このワークショップではなされたのである。そして3年たって、リターンが望めそうもないことが明らかになってきたのである。IT革命という言葉によってリードされた株価は崩壊し、バブルははじけたのである。 現在の技術革新のダイナミズムは非常に激しく、技術の陳腐化が短期間に起こりやすい。パソコンならば投資額は秘書の人件費に比してわずかあるが、コンビニを代表とした新しい流通スタイルやサプライチェーンマネジメントのようなロジスティックの合理化のための投資、半導体製造のための投資など、企業部門におけるそれは組織全体に及ぶため額が巨大になる。しかし技術革新が速ければ、投資を回収する前に設備は陳腐化して、投資に見合う利益が回収されずに終わる。つまり投資と回収のミスマッチが生じやすい。しかも陳腐化は、最先端技術だけでなく店舗デザインや住宅やオフィス等建築物にも起こっているし、あらゆる産業に起きている事態なのだ。わかりやすいのは中古分譲マンションである。鉄筋の構築物の減価償却年数は45年であるが、地方圏では築20年でも買い手を見つけるのが困難になってきている。下手をすると、北京。上海と東京等言うような都市構造そのものの陳腐化の問題であるかもしれない。そして、地価はそういう問題と深く関わっているかもしれないのである。
このワークショップにおいて、専修大学の作間氏は「資本のあり方に関しては、物理的な減耗の意味が減少する一方で、技術革新の下では陳腐化によって耐久性が著しく低下していることを捉え、フローとしての投資活動が盛んに行われるわりには資本の蓄積が進まない」可能性にふれていたが、それが現実のものとして現れたのである。
そして、もう一つ陳腐化を促進させる要素としてのコンセプチュアライゼーションがある。情報伝達量の拡大と速度が増したことが、競争をいっそう激化させている。具体的には、企業が金のなる木を見つけ利益を生み出し始めると、金融における情報開示制度により、あっという間に利益を生み出す秘訣について分析され、その分野に大勢の企業が集中することになる。そして、最初の企業ですら開発者利益を大きく得るどころか、投資回収すらおぼつかなくなり、投資は不良債権化して資本は食いつぶされることとなるのだ。グローバル化により市場は拡大したかのようにわれわれは捉えているが、実は逆なのである。移動手段の革新は三次元空間、つまり地球規模の移動という意味で、情報伝達の速まりは四次元空間、つまり時間軸において、市場を小さく密室化している。そして、そこに参加するプレイヤーの数だけが世界規模にふくれあがっている。つまり、われわれの市場は先日の明石の橋のように狭い通路にめがけて、大勢の人間が一斉になだれ込むような仕組みになっているのである。だから、合成の誤謬があらゆるところで常時起きていると考えてもおかしくない状態なのだ。
技術の進展がもたらしたIT革命が、必ずしも現在の経済や社会に正の効果をもたらすとは限らない。P.F.ドラッカーは現在のIT革命をグーテンベルグの活版印刷と並ぶものだととらえている。彼の言葉通りならば社会は数百年の単位で確かに大きな変化を迎えるだろう。しかしそのためには、M.ウェーバーが、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」において解き明かしたような、「勤勉と清貧による蓄財が正当とされ、西洋の中世世界を支配してきた宗教的ドグマの頸木を断ち切って、合理化への過程へと歩む」ことが必要なのだ。
それは旧来の価値観への決別である。こういう形のイノベーションが起きると社会は混乱し、一時的にはカタストロフィを迎えるだろう。来るべき何年間、いや数十年はけっしてきれい事の世界ではなく、下手をすると血みどろの意識改革を経なければならないかもしれない。しかし、カタストロフィ無しに新時代へ移行することはおそらく難しいであろう。というよりカタストロフィがあってこそ、人はその新しい価値観を受け入れざるを得ないからである。
W 二つのバブル
アメリカの株価は結局バブルだった。おそらく、90年代前半から続いた過剰投資は回収されずに不良債権への道を歩み始める。日本の金融市場で起きていることと同じく、資本は摩滅し、蓄積されず、金融市場は危機を迎えることとなるかもしれない。直接金融主体のアメリカの株価下落は、日本とは異なり一般市民の懐にダイレクトに影響する。消費は落ち込み個人破産が増大する。リテールに特化した金融機関やデリバディブを扱っているヘッジファンドは、現在世間を謳歌しているが、それは日本の都市銀行や生保の後を追うことになるかもしれない。国際証券http://www.kokusai.co.jp/の資料「米国・半導体調整底入れ時期の見通し」の製造設備とGDPの長期トレンドとの比較が掲載されている。これからアメリカの過剰設備を推定すると、少なくとも8000億ドル、最大で1兆2000億ドルになるかもしれない。この額は、日本に起きたバブル時の企業の過剰投資額と比べて小さいものとは言えない。このまま日本と同じような結末、資本の劣化を迎えるとすればダウはずるずると値を下げ、2002~3年頃には6000ポイントくらいまで下落するということも充分あり得ることだ。それは、対岸の火事ではなく、密室での火災となる可能性が大きい。つまり、東京の株価や地価の下支えをしている外資系の足下をすくうことだからである。外資の一部は、おそらく日本から引き揚げざるを得なくなるだろう。
東京の国際競争力がなくなり、日本が経済的苦境から立ち直れないのは、投資が少ないからではなく、「資本の脆弱性」が復活し始めているからである。しかも、効率性を求め、競争力を増すために技術革新を行い、その早さが増せばますほど、パラドックスは深まる。東京に資金を集結し国際競争力を増したところで、グローバル市場に参入するプレイヤーの数が増えるが、密室に大勢の人間が集まるだけである。われわれは明石の橋上の群衆のように立ちすくむ以外に道はない。そして、エコノミストは、事故時の警察官と同じで、何が起きているのか見てはいても理解できていないのだ。私はノストラダムスの大予言をしているわけではないし、ラビ・バトラの弟子でもない。現実の事態に目を背けないだけである。確かに戦争が始まったわけでもないし、日々の糧にも困らない。東京・大阪の繁華街には深夜遅くまで、人通りが絶えず、毎日お祭りのようなにぎわいを見せている。しかし、カタストロフィは着実に近づいてきているように思われる。経済学の教科書はすっかり役立たずになっていて、アメリカもそのうち日本と一緒に坂道を転がり始めるかもしれない。いや、資本の劣化という問題はグローバルエコノミー全体の問題と言えるだろう。
われわれができることは、カタストロフィの選択肢として「戦争」という愚挙だけは選んではならないということである。例え、起きるであろう悲劇的事態後の立ち直りが遅くとも、50年前の愚かな行為だけは選んではならない。そして、次の時代に向けての新しい社会システムの構築の準備に取りかかることである。
X 東京「江戸」の本当の役割
二つのバブルから解ることは、金融が直接であろうが間接であろうが、激しい資本の劣化が起こった場合、金融機関や市場は耐えうるものではないということだ。では、われわれにはもう何の逃げ道も残されていないのだろうか。おそらく、カタストロフィを逃れる道はない。それは、社会がダイナミックに動く以上さけられないことでもあるからだ。
われわれにできることは、カタストロフィによりもたらされるショックを軽くし、次に湧き起こるであろうダイナミズムのトレンドをより良いもの、また長期的・持続的なものとすることである。指針が全くないわけではない。カオス・カタストロフィ理論の母胎となっている「複雑系」の学問は、始まったばかりであるが、今回のカタストロフィが様々なデータを提出してくれるだろう。密室化した市場における合成の誤謬を和らげるためには、実際の密室や劇場における災害時の人間行動学と同様の手法で読み解くことができるかもしれない。また、経済社会を生き物として捉えた場合、ホメオシスタス理論や今西錦司博士の説いたような「棲み分け理論」も有効に違いない。市場の棲み分けをすることは、資本の劣化を防ぐことになるからである。もう少し視点を遠くに向けると、自立した地方経済圏の確立と地域通貨の研究はおそらく重要になるに違いない。一つ一つのコミュニティがある程度の完結性を有した組織体であることが、より大きな組織体を構成する場合に意味を持つからだ。例えば、阪神大震災のような大災害においても周辺部がその地域の補完的役割を担えるからである。
何よりも重要なことは、地球が閉ざされた系であり経済バランスだけでなく、エネルギーバランスや食物バランスにおいて制限を受けざるを得ないという現実だ。そして、現在の経済効率を何よりも最優先させる市場主義では、環境を保ち続ける社会を作り上げることは困難だろう。おそらく、経済効率よりも優先されなければならない「環境バランス」中心社会への価値観へと、われわれは変革を迫られているということだ。「有限な」社会での調和ということである。この東京という都市は産業革命以前には、鎖国という閉ざされた系の中で100万の人口を抱える大都市であった。しかもそのバランスを260年もの間この狭い国土で保ち続けたという「事実」がある。生態系バランスを崩すことなく、一定規模の人口を抱えたままで長期循環は可能であり、この国の歴史の中にその秘訣が残されている。東京という都市にとって、最も重要なことはこの「事実」であり、東京の本当に果たすべき役割は歴史と文化に隠されているといえるだろう。そのことに、「東京人」はいつ気づくのであろうか?
そういう思想と意識こそが、高速道路よりももっと重要であると解ったときこそ、東京の復活が始まると言えるだろう。