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【世界経済のゆくえ】「競争モデル」から「独占モデル」へ  − マルクス主義批判も若干 − 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 20 日 22:37:03:

予言者でも預言者でも占い師でもないので、未来の世界経済がこうなるという青写真を示すことはできないし、そのような意図もない。

経済は、外的な物理現象ではなく、経済主体(人々)の相互関係的行動が現象したものである。
しかし、だからといって、一人ひとりの経済活動が変われば経済実態が変わるというものでもない。
「時代的経済システム」の論理に反した非合理な経済活動は、そのような行動をした人(経済主体)を破綻させる。
一例を上げれば、従業員の生活向上を第一義に考えて給与を極端に多く払う企業は、短期的には従業員に感謝されるが、長期的には事業が継続できなくなり、従業員も職を失うことになる。(国民経済レベルに当てはめれば、より恐ろしい論理である)

経済システムの論理に反する経済行動は、善意に基づくものであれ、悪意に基づくものであれ、長期的には行き着く先は破綻である。(たとえそれが政治的権力に支えられたものであっても...)
時代的経済論理に反した経済活動は、多発するとしても、経済学的にはノイズとして捨象できる。


「近代経済システム」がそのような“外的強制力”を有するものであるからこそ、経済学は成立する。そして、だからこそ、どのような経済政策を実施すればどのような未来が到来するかを予測することができると考えている。

(経済学という学問は、貨幣経済が普遍化し、“資本を再生産すること”で人々が生活(再生産)していかざるを得ない「近代経済システム」のみを対象として成立するものである。それ以外の経済社会では、せいぜい、経済史・貨幣論・財政学などといったものが成立するだけで、経済社会総体の動きを説明する論理体系としての経済学は成り立たない。江戸時代やヨーロッパ中世などは、こういった経済活動で人々が生活していたという説明的記述はできても、それらを対象として物理学的=経済学的な説明体系を確立することはできないのである)


これまでケインズ主義やマネタリズムを取り上げてきたが、“反資本主義”を掲げ、異なる経済社会をめざすマルクス主義には触れてこなかった。

91年にソ連(圏)が崩壊し、中国が“社会主義市場経済”で経済成長を追求している現在、マルクス主義を取り上げる意義は低いと思われるが、日本の学界におけるウエイトや「近代経済システム」の行く末を考えたとき、マルクス主義を無視することはできないと考えている。
(マルクス主義は死んだと思われているが、「世界同時不況」が長期化すれば、主流派・非主流派を問わずマルクス主義的運動が復活し、中国などで左派的揺り戻しがあると考えている)

ここでは正面切ってマルクス主義を取り上げるのではなく、“世界経済のゆくえ”を考えるための参考モデルを説明していくなかで、マルクス主義の論理的誤りを指摘していきたい。


経済学は、「近代経済システム」が存立基盤だが、さらに言えば、「競争モデル」が現実としてそれなりに機能していなければ成立しない。競争がない「近代経済システム」になれば、経済学は考察対象を失ってしまう。

競争がないということは、経済活動がある一つの経済主体によって独占的に営まれているということであり、経済主体の相互関係的行動という経済学の分析対象がなくなるからである。


ある経済主体は厖大な金融資産を保有しており、油田や金属鉱山などの資源から農業・工業・建設・エネルギー・メディア・輸送・医療・サービス・商業・娯楽まで経済取引の対象になるものを供給するあらゆる資本(経済主体)をすべて所有した。
全産業を網羅した史上初の壮大な世界独占コングリマリット企業の誕生である。

この状況が「独占モデル」である。(複数の人、例えば1億人が世界独占企業の所有権をシェアしていてもなんらかまわない)

原材料や機械設備など生産活動に必要なものはすべて内部取引となり、輸送や小売りも自社のネットワークでこなす。

「独占モデル」の世界では、唯一の企業を所有する人(々)と、そこに雇用される労働者・管理者・販売員などしかいないことになる。(公務員や失業者はいてもいなくてもいい)

世界の資本的資産を独り占めにした経済主体も、資本の論理により利潤の極大化を志向するだろう。
他はすべて自分のものだから、“唯一”のコストである人件費はできるだけ少なくしようとする。雇用してくれる経済主体はそこしかないのだから、生活できる水準の給与で好きな数だけ雇用できる。
(本質的には給与の多寡は問題にならない。高額所得の従業員もいるなど個々の給与額にバラツキがあってもいい。そして、資源の有限性を無視すれば、世界の労働人口と機械設備(労働手段)の効率がその企業の最大供給力を規定する)

「独占モデル」であれば、世界独占経済主体が供給する財やサービスを購入するのは、従業員と所有者(たち)だけである。(原材料や機械設備を購入する外部経済主体はいない)
これは、世界の総供給が世界独占企業の供給に依存し、世界の総需要が、従業員の可処分所得(+貨幣的資産)の総和と所有者自身の貨幣的資産を合わせた範囲であることを意味する。

(政府が存在し公務員や兵士などがいるとしても、税金は、世界独占経済主体と従業員が収めるものだけだから、経済論理的には世界独占企業の従業員とみなすことができる。従業員が税金を納めるとしても、源泉は世界独占企業が支払う給与であり、公務員が税金を納めるとしても、源泉は税金だからである。失業者への生活扶助も税金で行われる。以降の説明で使う従業員という言葉には公務員や失業者も含まれていると考えて欲しい。「完全雇用モデル」ではなく、世界のみんなが最低でも生存していける「完全生存可能モデル」と考えてもらってもいい)

従業員の可処分所得の総和が、供給する財やサービスの価格総和を下回っていれば、所有者が支えない限り、全量を販売することはできないはずである。
もしも、利潤を含む“適正価格”で全量を販売できたとしたら、従業員が貯蓄を取り崩したか、所有者が買い支えたかである。

従業員が貯蓄を取り崩したのであれば、貯蓄がなくなったところで売れ残りが発生するようになる。

売れ残りが出るからといって、販売価格の総和をコスト(人件費の総和)以下にすれば、世界独占企業は、利益が出ないか、損失を被ることになる。

所有者が自社製品などを買い続ければ、腐らせるか、飽きてしまうか、不要なものを山積みにすることになる。貨幣を使っても自分のところに戻ってくるので、それによって課税が生じるのであれば納税分が減るが、税金として支払った貨幣も結局は世界独占企業に戻ってくるので支配する貨幣が減るわけではない。


想定した「独占モデル」であれば、長期的には、所有者が不要な財やサービスまで買い続けない限り、供給する財やサービスを“適正価格”ですべて売り捌くことができないのである。
どういう手法であれ、コストに想定利潤を上乗せした価格で財やサービスがすべて売れたことは慶賀の至りである。しかし、ことさら考えなくとも、利潤に相当する貨幣量は、すべて所有者(たち)の懐から出ているのである。たんに、自分の貨幣が自分の懐に戻ってきただけである。
これは、近代経済活動の動機である“貨幣的富の増大”という欲求が実現できなかったことを意味する。

世界のすべてを所有していれば、コストに相当するのは、原材料から機械設備の生産を含めて、従業員の給与である。所有者以外に、コストを上回る利潤分を支払える貨幣を持つ者はいない。

これは、労働によって価値が形成されるという労働価値説がストレートに実証される世界である一方で、マルクスの剰余価値説がストレートに否定される世界でもある。

マルクスの剰余価値説が正しければ、「独占モデル」でも、生活費ぎりぎりで従業員を雇い、彼らの労働によって生み出された価値(財の価格ととりあえず考えて欲しい)を絶対的に有利な条件の販売を通じて貨幣に転化できるのだから、間違いなく厖大な利潤が得られるはずである。
世界独占企業は、雇用も、従業員が翌日も労働できる給与水準で行え、生産した財やサービスも独占価格で販売できるのだから、最高の利潤率を達成できなければならない。

しかし、「独占モデル」によれば、従業員の貯蓄がなくなった時点で、1円たりとも利潤を得ることができないのである。

マルクス主義の政治的パワーの源泉は、資本家の利潤が労働者から搾取した不払い労働(剰余価値)を源泉にしたものだという認識である。
それゆえ、労働者の搾取をなくす世界をつくれば、労働に従事することで必要なものが手に入り、さらには、労働に従事することで欲しいものが手に入るようになると訴え、マルクス主義政治勢力は革命を唱導した。

そして、そのような理念と理論で打ち建てられたソ連や中国は、それを信じて国有企業形態での経済運営を行った。しかし、思うような実績を上げられずに、片や崩壊し、片や資本主義の道に走った。

共産主義国家の運営が巧くいかなかったのは、根源的には、官僚支配や計画経済の問題でも、国民の意欲の欠如でもなく、“搾取”をなくせばいいという論理的な誤りの上に立って経済活動が制御されていたからである。

共産主義国家は、限定的な意味ながら、近代経済システムにおける「独占モデル」を構築しようとしたのである。しかも、近代経済的には遅れたロシアや中国を基盤として出発し、先進諸国から“封じ込め”を継続されるという最悪の条件で...。

ソ連も共産主義中国も、経済論理的には資本制経済以外のなにものでもない。
世界すべてではなく、ある地域国家という限定的なものではあるが、世界独占企業が落ち込む“罠”にはまっていたのである。そのような条件のなかで、さらに、“封じ込め”に対抗するために巨大な軍事機構を造ろうとしたのだから、経済状況がより苦しくなるのは当然である。(厖大な労働が、国家を防衛するという目的以外には効用がない軍事物資に注ぎ込まれ、厖大な労働力が軍事物資を使う兵員として注ぎ込まれたのだから)

ソ連を定義づけるとしたら、「戦時体制の国家資本主義国家」である。
ソ連は、労働価値説がみごとに強制力を発揮し、剰余価値説の廃絶がまったく威力を発揮しないことを現実でみごとに示したのである。

先進諸国が封じ込めをしなければ、ソ連は、経済政策次第で米国をしのぐ近代的経済力を誇示できるようになれたと考えているが、その手法は別の機会とする。できると思われたから封じ込めされたということも考えられるので、歴史的現実としては無理だっただろうが...。

(マルクスの剰余価値説には、リンゴ5個−ミカン3個=?という同質でないものの引き算の答えに2を無理に当てはめるという算数的誤りも指摘できる。労働価値から労働力価値の総和を差し引くことはできない。労働と労働力の違いについては面白い考察対象だと思っているのが、これも機会があれば...。)

革命をあきらめた主流?の共産党にしろ、革命を志向している極左派にしろ、唯物史観はともかく、マルクスの「資本論」を超克しなければ、前に進むことはできないだろう。
剰余価値説にしがみついている限り、現実の経済を分析することもできないし、生活水準が上昇している先進国では多数派を形成することもできない。

日本で有力な宇野学派については、マルクスがせっかく“資本”という非人格的主体の相互関係的運動として資本主義経済を説明する理論体系を作り上げることで資本制経済社会の本質を明らかにしたにも関わらず、労働力商品が資本と結びつく過程がないという考えから、「原理論」説明体系の最初に流通論を置くという誤りを犯したことを指摘しておきたい。
人(共同体)は、生産(労働)なくして生存できないのである。労働力だけでも、労働手段だけでも、大地だけでも、生存を確保することはできない。労働力と労働手段が結合した労働により対象(自然)を変容させて目的を達成するという生産活動を通じてのみ生存を維持できる。(木の実を採集するにしても、労働力と労働手段が未分化であるだけで同じである)

これは、資本制経済でも貫かれている原理である。

資本制経済は、労働力・生産手段・労働対象が貨幣的に評価される“資本”となり、その“資本”の生産過程と再生産過程を通じて、人々が生存を維持しなければならない経済システムなのである。(モデル的な説明として受け止めて欲しい)
“資本”に拝跪し、“資本”を維持増大させることで人々が生存することができるというのが、「近代経済システム」の原理である。それゆえ、“資本の論理”=経済論理に逆らうものは、打ち倒されることになる。

誤りを含むとは言え、このような説明体系を確立したことで、マルクスを高く評価している。


「独占モデル」の説明に戻るが、世界独占企業が強欲で非合理的な思考力の持ち主であれば、供給した財やサービスが売れ残る現実を見て、販売可能数量の供給ができる人数まで従業員を減らしてしまうだろう。
少しは温情がある所有者であれば、価格が高いから売れないと判断し、解雇せず、コストである給与総額を減らすかもしれない。

しかし、推測できるように、いずれの方法を採用したとしても問題を解決することはできず、さらに販売量を減らすことになる。

首切りをしても販売量が減らないとしたら、解雇した元従業員が政府に雇用されたか政府から生活扶助を受けていることを意味し、それは、世界独占企業の納税額が増えることで実現できるものである。(企業の納税額が増えないのであれば、従業員の納税額が増えたことでしか実現できないから、その金額分が販売量の減少につながる)

世界独占企業が、利潤が手に入らないのは税金負担のせいではないかと考えて、失業者への生活扶助を打ち切ったり、公務員を減らす政策を政府に実現させても、利潤が得られることはない。
どうあがいても、世界独占企業が支出した金額と所有者が支配する金額の総和以上に、世界独占企業が供給する財やサービスを購入する“力”はないのである。
(福祉の打ち切りで飢え死にするものが増えれば、有限な資源の寿命を延ばすことはできる)

利潤が得られなければ、世界独占企業は、所有者に配当金を支払うこともできない。
配当金をあてにしてそこで働いていない所有者たちは、失業者と同じである。蓄えがなければ、保有する所有権(株式)を蓄えがある別の人に買ってもらうしかない。(買い手がいればの話だが...)

「独占モデル」の世界では、GDP的な意味での経済成長もない。そして、インフレを起こしても、デフレを起こしても、現在のような経済的意味を持つわけではない。

世界独占企業が支払う人件費と税金が、財とサービスの取引を通じて世界独占企業に戻ってくるという無限循環である。

GDP的には停滞だが、それが生活レベルの停滞を意味するわけではない。
世界独占企業の技術者が、知恵を働かせより効率の高い労働手段を開発すれば、労働が楽になったり、単位労働で算出される財の量が増える。また、新しい機能を持つ製品を開発すれば、生活の利便性が向上することになる。
労働効率で財の生産性が上昇すれば、同じ金額で購入できる財の量を増るが、労働時間が短縮される(はずである)。新しい機能を持つ製品を生産するために従業員を増やせば、新しい製品も、コスト価格でなら販売できる。


今回書いた内容は、確かに極端なモデルである。

しかし、現在なお「競争モデル」が適用できるとは言え、近代の歴史過程を顧みれば、「近代経済システム」の論理が適用できる地域が拡大するとともに、「完全競争モデル」に向かって動くのではなく、その逆の「不完全競争(独占)モデル」の方向に動いてきたことがわかる。

近代世界は、寡占化と言われるように、「独占モデル」の方向に動いてきたと言える。そして、今後もその方向に動いていくだろう。
企業の買収&合併、事業から破産や見限りで撤退する企業の増加(大型店舗の進出で廃業する商店や事業不振で消えていく中小企業)などは、「独占モデル」にわずかとはいえ少しずつ近づいているということである。

連載をお読みいただいている方にはおわかりだと思うが、ここで取り上げた「独占モデル」の“罠”は、「独占モデル」のみに適用される論理ではない。

「競争モデル」でも、世界規模で考えればまったく同じ“強制力”が働いている。数多くの経済主体がうごめいている複雑な「競争モデル」では、それが見えにくいだけである。

“独占禁止法”で「独占モデル」の現実化を阻止すれば防げるという類の“罠”ではなく、「近代経済システム」が根源的に内包している“罠”なのである。

「独占モデル」を思考実験することで、「競争モデル」自体が既に内包している“罠”が見えやすくなっただけである。


次回からは、抽象的な説明ではなく、このような経済論理を基礎に現実の世界がどのように変容していくかを考えてみたい。


※ 「独占モデル」で見える別の事実

「独占モデル」の公務員は、世界独占企業の従業員とみなして取り扱ってもいいと説明した。この論理も、現実の世界で通用するものである。
さらに言えば、従業員が税金を納めるというかたちではなく、企業が一括して税金を納めるということでも経済論理的には同じである。

国民意識(立場と言ってもいいが)や価値観を無視すれば、価値(財やサービス)を生産している企業が税金をすべて負担するかたちであろうが、給与を受け取る人や消費行動をする人も負担するかたちにしようが同じである。

もちろん、現実世界では税体系の違いが個々の人に様々な経済的得失をもたらすので、重要な政策であることは間違いない。

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