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『【世界経済のゆくえ】世界経済にとって70年代はどういう時代だったのか』
( http://www.asyura.com/2002/hasan10/msg/744.html )
『【世界経済のゆくえ】経済支配層は70年代に何を考えたのか』
( http://www.asyura.com/2002/hasan10/msg/761.html )
に続くものです。
================================================================================経済的支配層ではない人々は、80年代以降、きわめて苛酷な経済システムのなかで生存していると言える。
それは日々の生活の問題ではなく、あくまでも経済システムの苛酷さである。
世界中の非支配層が、成育の対象としてではなく、収穫(刈り取り)の対象として位置づけられるようになったからである。
近代の象徴とも言える産業の発展を通じた生活条件の向上が限界に達したという認識を持ったことで、経済支配層の利益拡大の力点は、金融活動に置かれるようになった。
農業や工業の発展は労働成果物の増大を意味するので、それをきちんと販売して通貨を得るために、需要拡大策が採られる。
近代産業で生産されるものを買ってくれる主体(個人・企業・政府)がいなければ、近代産業は沈没する。(それに依存している金融資本も利益を拡大できない)
商業や輸送業は、このようなサイクルの一端を担う存在である。
外食やクリーニングなどのサービス業は、物の購入よりも、労働の節約や快楽に支出が選択されることによって成り立つものである。(生存維持活動の効率化と言うこともできるし、労働成果の一部を特定労働を対価として引き渡すことでサービス提供者も生存できるという相互扶助的関係と言うこともできる)
個人の浪費であれ、政府が行う戦争(厖大な物と人の“浪費”)であれ、それらが通貨を持っていなければ、望むことを実現することはできない。企業が企業から物を買うのも、究極的には個人や政府が自分の生産物を買うと予測するからである。
政府は、自らが生産を行う主体ではなく、個人や企業が行った余剰労働を税金や債務というかたちで吸い上げることで物が買えるという存在である。(経済支配層は、かつては一大浪費である戦争を政府が遂行できるよう多額の貸し付けまで行って支援した。現在の米国は、外国からの借金で軍事力を増強している)
こうして論理的に考えれば、個人が物をより買えるようになるという条件がない限り、近代産業が発展できないことがわかる。
(消費市場として位置づけられたインドなどの植民地支配にもこの論理が働くから、植民地は“放棄”したほうが得策なのである。そこに権益を持つ経済主体はともかく、植民地支配を維持するための軍事力や購買力を発展させるための民政で国家が費やすコストを考えれば、植民地支配は国民にとって割が合わないことである。宗主国の国民が移民するという本当の植民地や資源収奪が目的であれば、その地の原住民はいなくなってもいいのだから、苛烈な支配で維持をはかる。原住民がいなくなれば、軍事力もそれほどいらなくなる。英国などの旧植民地支配国家は、割が合わない直接支配はやめ、経済権益のみの維持に務めている。韓国併合について、韓国に近代化をもたらしたとか、日本は持ち出しだったというようなことを根拠に“反論”しているムキもあるが、そのような支出をした目的は、経済的利益や国家的利益(富国強兵)の追求である)
これまでの説明に出てこなかった経済主体は金融業である。
銀行を筆頭に、保険業・証券業・クレジットカード業・サラ金業などが属する分野である。
金融業はサービス業に近いものと言うこともできるが、その労働成果や利益の源泉は何であろうか?
労働成果として共通しているものは、“通貨の移転”である。(通貨を増やしたわけではなく、移転させただけである)
ある経済主体が保有している通貨を、別の経済主体に移転させる行為を事業として行っているのが金融業である。
通貨の移転という労働によって得られる利益は、利息であり、手数料であり、証券の値上がり益である。
利益とは通貨を増大させることである。しかし、金融業は、通貨を移転することだけを行ったのであり、産業資本のように通貨を増大させる行為は行っていない。
通貨を増大させる行為を行ったのは、借り入れをした経済主体であり、カード利用者とカード加盟店であり、株式にお金を投じたひとである。
銀行が通貨を増大させる行為をしているのなら、「バブル崩壊」を契機として生まれた現在のような問題は起きていなかった。借り手が借りた通貨を増大させることに失敗したから、銀行は不良債権を抱えることになったのである。
「銀行は余剰資金の最適配分という労働」をしているという考え方もできるが、利益の源泉である労働成果物を生み出すわけではない。(日本の銀行が、最適配分を誤り、公的資金導入などで他者の労働成果を食いつぶしながら存続していることは考慮外)
「銀行はお金が欲しいという人の欲求を満足させる労働」をしているという考え方もできるが、貸し付けたり投資するお金の90%以上はひとのお金である。
現状はボロボロだが、大手銀行であれば、“通貨の移転”労働で、数万人の給与や役員に高額報酬を支払い、預金者への利息・巨額の税金と配当を支払った後でなお巨額の利益を確保していたのである。
従業員の給与から内部留保の利益までそのすべてが、“通貨移転”先の労働成果を源泉とするものである。
(受け取る利息が労働成果の一部でなければ裏付けのない通貨ということになるから、インフレになり、利益のある部分は帳消しになる。この論理は、銀行がサラ金から利息を受け取っている場合も同じである。究極的に労働成果に対応した利息を受け取っていなければ、通貨価値を薄めるインフレになる。株式市場など金融市場にとどまり続ける通貨はインフレにつならがない)
あれこれ書いてきたが、結論的に言えば、金融業は、それ自体として労働成果物を生み出さないし、通貨も増大させない存在であり、他者の労働成果に依存しているということである。
違った言い方をすると、全員が金融業に従事して生きていくことはできないということである。(米国の全員がということは可能だが、世界の全員がということで...)
80年代以降は、そういった性格を持つ金融資本が直接的に利益を拡大できるようにする価値観や政策が世を覆うようになったのである。
これが、冒頭に、「経済的支配層ではない人々は、80年代以降、きわめて苛酷な経済システムのなかで生存していると言える」と書いた理由である。
良いか悪いかは別として、物を大量に生産し続けることを通じては思うように利益を上げられなくなったと考えた経済支配層は、物を生産している経済主体やその従事者の成果を得ることやそれまでの経済活動で人並み以上に通貨を保有している経済主体から通貨を得ることを志向するようになったのである。
従来的な貸し付けはそのまま続けられているが、収穫を志向するようになってから強化された利益拡大策は、次のようなものである。
● 一般勤労者を含む大勢からは、日々の消費活動で使うカードやカードローン(リボ払い)で
加盟店からの手数料というかたちだが、カードの利用が日常化すれば、カード会社に支払う手数料を織り込んだ価格設定をする。消費者は、カード手数料分高い支出をしていることになる。そういう価格上乗せができない事業者は、利益を減らしたり、破綻することになる。これは、可処分所得が商品そのものに向けられる割合を減少させる。言うならば、第二の消費税である、金融資本への納税だから、本当の税金と違って自分のために使われることはまずない。
クレジットカード以外の“電子的支払い手段”も同じである。
● 一般勤労者に投資を煽ったり401Kなどを導入することで
人々が保有している通貨を合法的に召し上げる格好の手段は、株式市場や債券市場の活用である。(儲けられるという期待感を抱かせるのは、お金を出させる最大の動機付け)
支配層が保有している株式を他の人たちにできるだけ高く買わせ、頃合いを見て空売りを仕掛け、安くなったところで買い戻す。これによって、保有株式はそのままで、さらに他者の通貨を手に入れることができる。
「ITバブル」で見られたように、自分が手がけた新興会社の将来性を煽って株式を高値で買わせ、あとは放置する。新興会社の多くはいつしか倒産し、投資家は紙屑の株券を持ち、金融資本は通貨を手元に残す。
(これが、米国の“起業家精神”を支えている原動力である。上場で、創業者も創業者利益を得る。“良い”金融資本とタイアップすれば、創業者も濡れ手に粟で大金を手に入れられる)
もっとあくどい手法としては、初めから返済するつもりがない債券を売って通貨を集める。(別に金融資本が直接顔を出さなくてもいい。お金を貸した会社に債券を発行させ、“援護射撃”してやりながら集めたお金を自分の返済にあてさせる。返済が終わったら、倒産してもらってもかまわない)
「エンロンの破綻」は、このような詐欺の大掛かりなものである。
● 預金者から口座維持手数料を徴収することで
日本ではまだあまり広まっていないが、これから普及していくことになるお金の召し上げ方法である。
一般勤労者であれば、受け取り利息と口座維持手数料が相殺されてしまうだろう。
これは、利益の流出を防ぐという目的である。
ここまでの手法は、薄く広く頻繁にというお金の召し上げ方である。
稼ぎや金融資産が少ない一般勤労者からは、集めれば厖大だが個々人からはそれほど召し上げることはできない。
個別にけっこうな召し上げができるのは、小金持ち(日本の大金持ちもそんなもの)や企業である。
● 小金持ちに対しては
やはり、株式市場や債券市場に参入させることである。
現在の東証日経平均は、11,000円強である。
名目額では85年の価格水準だが、インフレ率を考慮すれば、おそらく82、3年の価格水準だろう。その時点から株式を保有していた人は、配当率は定期性預金よりも低い傾向にあるから、その時点で投じた金額を定期性預金にしていたほうが現在価値は大きいはずである。(89年に買った株式を保有し続けていれば、価値は1/3になっている)
20年経っても、株式市場は実質的に上がっていないのである。
これは、産業資本の成育をそこそこにして、金融的刈り取りを志向するようになったことの反映でもある。
金融的刈り取りによって余剰資金が“偏在”する方向に進んでいるのだから、株式市場が上昇するのは、通貨を集めている主体が買いに走るときである。しかし、彼らはバカではないから、自分たち以外に市場全体を押し上げるだけの資金的エネルギーを持っている奴はいないことを知っている。
株式市場が上昇するときは、次の下落が用意されているときでもある。
経済支配層の波に乗れない投資家は、経済支配層にお布施を払うことになる。
(日本は、政府が株価を買い支えているので微妙に違うが、米国はそのような動きである)
アルゼンチンの円建て国債を購入してうろたえている人もいるが、これも金融資本への上納である。
国際金融資本がアルゼンチン政府に貸し付け、アルゼンチン政府がそれを返済するために国債を発行し続け、国際金融資本がきちんと儲けた段階で、国債購入者やアルゼンチンの預金者が泣きを見るというものである。
アルゼンチンがどうなるかは、IMFや国際金融資本がずっと掌握し続けている。そういう主体は、損を被ったりしない。
(アルゼンチン国債を買った人たちには“貸し手責任”が語られ、債務切り捨てが行われることになる。最大の“貸し手責任”を負うべきIMFが、そうするのである)
● 企業に対しては
これも、株式市場と絡んでくる。
金融資本は、産業資本を見限ったわけではなく、世界が続く限り利益を生み出す経済主体と考えている。
だから、優良企業は自分のものにしたいし、そこそこの企業は手に入れた後に高値で切り売りして利益を手に入れる道具に使いたいと考えている。
(80年代後半から90年代中期まで、米国では、そのような目的を実現する一つの方法であるM&Aが流行した。買収先の資産を担保にして金を借り、手に入れた企業をリストラし、部門単位で切り売りする商売が吹き荒れた)
それをスムーズに効率よく実現する方法は、株式市場の大幅な下落と経済不況をつくり出すことである。
ターゲット企業の株価が下がれば、少ない資金で支配権を手に入れることができる。(もちろん、支配権を手に入れるまでの株式売買でも利益を手に入れる)
そして、経済不況であれば、株価を下げやすくなり、資金繰りに窮した企業が買収交渉に乗ってくるようにもなる。
手に入れる企業の競争相手(利益を横取りする企業)は、不況のなかで破綻してもらう。
競争相手が減れば、不況が続いても、従来より多くの利益を稼ぐことができると考える。
経済支配層=国際金融資本は、これらの手法を駆使して利益の拡大を実現している。
わかるように、彼らの利益拡大は、その他の人たちの損失を通じてである。
さらに、自分たちの損失を減らす方策として、所得税のフラット化を行い、付加価値税(消費税)の引き上げを行ってきた。
60年代までや70年代まで追求されたような、他者の利益拡大を通じて自分たちの利益拡大を実現するという手法から大きく転換したのである。
まさに、生育期から収穫期への移行である。
生産活動で利益を追求しない金融資本は、保有通貨の価値が減少するインフレを嫌い、利益が拡大できるのなら保有通貨の価値が増大するデフレを好む。
他者の損失を通じて利益の拡大ができるのなら、経済支配層は、「デフレ不況」も大歓迎である。
次回は、「小泉改革(構造改革)」の源流である“新保守主義”の政策を、このような転換との関係で取り上げてみたい。