★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
参考資料(幕末〜明治) 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 07 日 01:00:06:

(回答先: 国際的ペテン師の一族=皇室 投稿者 デスラー総統 日時 2002 年 11 月 04 日 18:46:16)

明治という時代

第一部 

     丁髷頭をたたいてみてば、因循姑息の音がする
     惣髪頭をたたいてみれば、王政復古の音がする
     ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする


 明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が発布された。
第一条  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条  天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス
現在日本の形は、全てここから始まった。其の話をしよう。
 明治二十二年二月十一日、午前十時三十分、政府高官の並ぶ中、明治天皇の玉座着席によって、式典は始まり、明治天皇は憲法発布の勅語を読み上げた。式典はほんの十分ほどで終わったのであるが、祝砲がとどろき市中の鐘が鳴り、山車が練り歩き、仮装行列が繰り出し、さながら祭り気分の大にぎわいであった。
万歳、万歳、万々歳の大合唱のもと、無事、式典は終了した。因みに、最初は「奉賀」と唱える案が出たのであるが、何回も唱えていると「阿呆」に聞こえるので「万歳」に変わったらしい。それ以後、万歳は、頻繁に使われるようになる。そして翌年十一月二十九日から施行される胸決まった。国民を無知、阿呆たらしめた憲法の船出である。
伊藤博文の胸中如何ばかりか。
 
 第一条、天皇は万世一系であると記す。今から思えば、こんな大嘘、憲法の第一条に、良くも入れたものである。あまりの大胆さに、日本国民全員が、呆気にとられ、脳みその麻痺により信じ込んでしまったのか。
第三条でもって、天皇は神聖にして犯すべからずと念を押す。アジアでいち早く、近代的立憲国家になったという思いが、これらに対して目くら判を押させたのか。それにつけても、少し前の幕末の世、天皇は玉と呼ばれ、政治の道具に過ぎなかった。そう行動してきたのは、伊藤博文自身では無かったのか。そして、それ以前は、すっかり歴史の表舞台からは無視されつづけて来た天皇である。
天皇の歴史のほんのさわりを紐解けば、天皇が万世一系で有るわけがないと言うことは少年でも見抜く。紐解いてもらっては困るから、神聖にして犯すべからずと続く。情報を独占し、強権によって言いくるめる。嘘八百でも、批判を許さず、何回も、声高に唱えることにより本当になる。御用学者が必死に太鼓持ちをやる。批判や意見を言おうものなら、その日から飯の食い上げになる。それどころか命すら危ない。従って御用学者に成らざるを得ない。おかしな理屈の積み重ねにより、いろいろと言いつくろう。一見開かれた世のように思われた文明開化の明治も、この一手ににおいて、まさに暗黒の世界にはいるのである。
 伊藤博文らは、一体なぜこのような条項を入れたのであろうか。尊皇思想の成文化が其の全てであろうか。あまりの現実離れに、私はなぜか、煮え切らないものを感じていた。
 其の答えは幕末動乱期にあった。

倒幕に燃え立つ、革命の志士達は、其の革命思想が、最初から一貫していたわけではない。尊皇攘夷から、公武合体、攘夷、倒幕、尊皇開国へと変わっていく。
 西欧列強との対立の愚を知った、薩摩、長州などは、尊皇、倒幕、開国へと傾いていく。慶応2年1月(1866)の薩長同盟の成立により、この考えは、確固たるものとなる。ところがである。尊皇として頂くべき、時の孝明天皇は、頑固な攘夷主義者であると共に、幕府に好意的で、公武合体を押し進めていたのである。
 文久三年の八月十九日未明には、孝明天皇の指示により、中川宮朝彦親王を中心に、公武合体派の巻き返しを図り、尊攘派の公家達を追放、禁足した。もっとも、薩摩はこの時、まだ公武合体派であったが。しかし慶応二年の段階では、薩長をはじめ、革命志士側にとって、倒幕は、動かしがたい目標になっていた。
従って、孝明天皇は、極めて大きな障害となっていたのである。しかし、孝明天皇は、一貫して公武合体路線を堅持していた。
 そんなとき、天皇が疱瘡にかかったのである。
ここのところは、少し詳しく見ていこう。
「孝明天皇紀」、「中山忠能日記」より、拾ってみる。
ちなみに、中山忠能とは、明治天皇の生母と言われている中山慶子(孝明天皇の妾)の父である。
慶応二年十二月二十一日
 天皇は、少し風邪気味であったようだ。
十二月十二日
 高熱を発し、苦痛を訴える。
十二月十五日
 手に一対の吹き出物が出来る。
十二月十六日
 吹き出物が顔にも出来る。一睡も出来ず、吐き気と下痢が激しい。
十二月十七日
 典医十五名は正式に疱瘡と発表、宮中にわかに騒がしくなる。
十二月十八日
 吹き出物が変色して落ち着く。睡眠もとれはじめた。京都守護職松平容保などがお見舞いに参内。
十二月十九日
 朝から食欲がでる。
十二月二十日
 食欲、便通も順調、吹き出物の経過も良好。
十二月二十一日
 天皇の機嫌が良くなる。吹き出物から膿が吹き出し始めてさらに楽になる。徳川慶喜もお見舞いに参 内。
十二月二十二日
 午前二時に葛湯一碗、唐きび団子三つ、さらに二時過ぎに唐きび団子五つ、十一時半にお粥一碗、  正午には御大便少々、午後二時に唐きび団子七つ、五時にお粥一碗、八時過ぎにほしいい一碗、
 十二時前にお小水、そして午前一時前にお粥半碗と大根おろし少々。

食欲も排泄の方も順調に回復していることを記している。又、中山忠能の日記にも、すでに前日に「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と書いている。

十二月十三日
 食欲ますます進み、吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめた。
十二月十四日
 この日も葛湯、お粥、ほしいいをとり、便通もあり、天皇の機嫌はますます良好。

ところがである。

十二月十五日
 天皇の様態は前夜から急変、激しい嘔吐と下痢におそわれ、顔には紫の斑点が現れた。さらには「御 九穴より御脱血」、七転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。

天皇はまだ三十六才、それまでは至極健康な壮年であった。
 

孝明天皇記をはじめ、殆どの資料は、疱瘡による急死である胸、伝えている。
しかし上の日記からだけでも、何か解せないものを感じるが、やはり戦後になり、いち早く歴史家のねずまさし氏が、孝明天皇は病死ではなく暗殺であることを学問的に論証された。
事が事だけに、論証の正否などには関係なく、学会からは無視された。
ところが、十数年前、天皇の最後の病床に立ち会った宮廷医師、伊良子光順の曽孫に当たる伊良子光孝氏が、光順の手記について発表された。「日記の中には、毒殺ではないかと疑っているような表現があります。」としながら、自らも医師であるところから、其の手記を明細に検討した結果、医学者としてみるなら、砒素系毒物による急性中毒症状であると診断せざるをえない。(石見銀山あたりの)亜砒酸である可能性が高い。
これに対して、死因を痘瘡だとすると、痘瘡が殆ど全快した段階における様態の急変、異常な症状を説明することが出来ないと言われる。
 ここまでくると、孝明天皇毒殺は、当時より、一部で噂されたとうり、何者かによる暗殺であったことは、かなり高い確率で認識される。ならば、其の暗殺者は誰か。宮廷の奥深く、しかも権力の中枢で行われたことであり、今となっては物証は何もない完全犯罪である。しかし状況証拠は、ただ一点を指し示している。岩倉具視と其のブレーン、薩摩、長州の討幕派の中枢。岩倉具視は、それ以前にも、天皇の暗殺を企て、投げ文されたことがある。
 維新後の動向と考えあわせれば、岩倉のほかに、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文、彼らが大なり小なり関わっていたことは、全ての状況が指し示す。

左の写真の人物は、向かって左より、木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通である。明治5年ワシントンで撮られた写真である。

岩倉具視の義妹、堀河紀子が宮中女官として入っていた。彼女が加担していたことは容易に推察されると、先に挙げた、ねずまさし氏も指摘している。
典医によって調合された、痘瘡の薬は、女官の手を経て天皇のもとに運ばれる。その間に、そっと毒物を混入すれば済むことである。
まさに、その後彼女は、口封じの如く、薩摩と思われる手によって殺害されているのである。
 
 強権と、情報の独占、マインドコントロールによって、日本人の口を封じることが出来ても、それは外国までは及ばなかったようだ。
当時、日本に駐在していたイギリスの外交官アーネスト・サトウの「日本における外交官」と言う日記が残されている。名前が日系人のようであるが、れっきとした紅毛人である。この日記の中に、孝明天皇は革命、革新のじゃまだったので暗殺されたという噂を聞いたという文章が残っている。もっとも、日本訳されたものは、なぜか、この部分がカットされてはいたが。噂と言っても、巷のそれとは違う。仮にも外交官の残した手記である。その筋の噂と言うことである。彼は、其の噂を聞き、さもありなんと納得している。
 もう一人、朝鮮に安重根と言う朝鮮独立運動家がいた。明治四十二年十月十六日、満州ハルピン駅で、伊藤博文を狙撃したテロリストである。彼は、他の朝鮮人が多く持っているように、いやそれ以上にがちがちの儒教信奉者であった。彼は、伊東殺害の後、その場で取り押さえられたのであるが、その後の裁判等で彼自身の信条を述べている。伊東を殺害した理由の中にこんな文章が残っている。
「今ヲ去ル四十二年前現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラルル御方ヲ伊東サンガ失ヒマシタ其ノ事ハ皆韓国民ガ知ツテ居リマス」

伊藤博文は孝明天皇を殺害した。そのことは韓国民は良く知っていると言っているのである。安重根の情報入手経路は、はっきりしていないが、伊藤殺害の動機の一つになっている。彼の裁判は、どういう訳か裁判途中より、非公開になってしまった。
 右の写真は、若き日の伊藤博文である。一枚の写真は時に、万巻の書以上に何かを語りかけることがある。
伊藤が、長州松下村塾の一人として、岩倉の幕下に有ったことは大いに想像がつく。
 現在、これらのことを検証しようとすると、断片をつなぎ合わせた、状況証拠に頼らざるを得ない。論理が正しいにしろ、間違っているにしろ、ことさらに抹消され続けてきた歴史の暗部であることはいがめない。なぜか目に見えない強い力によって、常に覆い隠されてきた。そして、悲しいかなそれは現在とて同じであるようだ。

 こうした目を持って、幕末を見ていると、今ひとつ疑問に突き当たる。それは、孝明天皇の死を遡ること、五ヶ月、将軍家茂の死についてである。
この時期、時代の思惑は錯綜している。少しそのことに触れよう。紀州より迎えた、徳川慶福は、徳川十四代将軍として、名も家茂と改めていた。後見役に一橋慶喜がいた。朝廷側、孝明天皇に支えられ、家茂は長州軍に対峙した。いわゆる禁門の変である。大阪城に本拠を置き、長州征伐の途についた。長州は、劣勢に立たされていたが、このころ、薩摩の動きが微妙になってくる。土佐の坂本龍馬らの動きにより、薩摩長州は、密かに同盟を結ぶのである。西洋式の武器が、薩長へ流れ込むことにより、幕府側の旗色は悪くなる。こんな折り、突然、若き征夷大将軍家茂は死去するのである。其の死は単に世間から隠されただけではなく、妻(孝明天皇の妹、和宮)をはじめとする近親のものにも、其の姿を隠したのである。時を同じく、薩摩藩主らにより、建白書が出された。内政変革の急務である胸を強調し、長州征伐をやめるよう説いたのである。状況は、俄然きな臭くなる。死に一人立ち会ったという、旗本蜷川(にながわ)相模守の息子蜷川新は語る。
 大阪城にいた将軍家茂は、慶応二年の七月毒物の盛られた茶を飲み、にわかに苦しみ始め死去した。毒殺の事実は極秘にされたが、家茂に従って従軍していた父は其の真相を良く知っていた。遺骸は江戸に送られた。和宮は遺骸に礼拝することを希望されたが、毒物の痕が顔面に気味悪く現れていたので、老中は納めてある棺を開くことを許さなかった。
と言うのである。
薩長だけでは、毒は盛りづらい。やはり、急進派の公家が絡んでいる。尊皇攘夷から、開国へ方向転換しかけていた急進派の面々。指し示す方向は一つである。そして、家茂をやれば、次は孝明天皇。テロリストの段取りは、算術のように、導かれていく。私がこの場に居合わせ、岩倉や大久保の立場だったら、やはりそう考えるであろう。
 左の肖像画は、十四代将軍、家茂である。
文久三年三月、天皇の賀茂社行幸に供奉したとき、高杉晋作に、「イヨーッ、征夷大将軍!」とやじり飛ばされている。幕藩体制始まって以来の珍事であったが、幕府、将軍と言ったものの地位がいかに落ちていたかを如実に示している。
和宮(かずのみや)はわずか五年で未亡人となる。公武合体という政略結婚の悲しい犠牲者であった。時は過ぎ、昭和三十年、増上寺の発掘調査の際、和宮の棺の中から湿板写真が見つかった。その画像は確認されないまま一夜で消えたという。一体誰の写真を抱いて、お眠りになっていたのか、夫家茂だったのか、もとの婚約者有栖川宮だったのか、それとも私どもの知らない誰かだったのかミステリーとして残った。
 考えてみれば、将軍家茂の暗殺、孝明天皇の暗殺、どちらも、歴史を揺るがす大事件である。天皇の暗殺なぞ、千年たっても怨まれそうな事柄である。
 明治憲法の条文。岩倉も大久保も亡きこの時、伊藤博文の熱い思いの一端が、見えてきたような気がしている。伊藤博文にとって、絶対に欠くことの出来ない条文であった。
がしかしである。事はそれだけでは収まりそうもない。第二部で検証してみよう。


--------------------------------------------------------------------------------


第二部


        身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
                   とどめおかまし大和魂    吉田松陰辞世の歌


 明治天皇は、体躯もよろしく英邁で、世界に冠たる天子で在らせられる。こんな噂は世界に知れ渡っていた。日清、日露の勝戦は、それを確固たるものにしていた。かなりの、おべっか、ごますりがあったとしても、数々の噂や其の体動から、根っからのぼんくらでなかったことは確かのようである。ハワイの王様なんか、自分の姫に婿さんを求めてきたくらいだから。もし、ハワイ王家と婚姻関係を結んでいたら、その後の歴史はかなり変わったに違いない。オット、脇道にそれた。
明治という激動の時代を乗りきれた其の要因の一つに、この明治天皇の英明さを挙げても良いと、私は思っている。
 がしかし、明治天皇紀や、中山慶子の手紙などを覗いてみると、其の少年期は、虚弱体質で、病気ばかりしており、あまり学問は好かれず、御遊技ばかりしていたようである。実の母親であるという中山慶子自身が、父である忠能に宛てた手紙が残っている。
「・・・何分にも世は末に及び、御所中悪魔えいまんにて恐れ入り候。当今様おん事(睦仁天皇)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず・・・かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。ただただ神慮にかなわせられ、ご強運強く、神明のご加護にて早々内外の悪魔を遠ざけられ候よう、祈り入り祈り入り上げ候。なかなか紙上に尽くしがたき事ども日々御座候いて、浅間しきごようす、嘆き入り、嘆き入り参らせ候。」
我が子ならば、かなり欲目に見ても良さそうであるが、其の母親が、睦仁のあまりの愚昧さに嘆いているのである。この中山慶子の日記からは、睦仁は、精神障害があったのではないかと思わせるほどである。上に抜粋したのは、慶応三年一月十二日の手紙である。
 

  が、しかし其のわずか一年足らずして、さっそうと馬に跨り、声高らかに号令をかけ、臣下の乗馬を気遣うほどの賢人になっていた。この違いは一体何を意味するのか。全くかな釘流の書体であった睦人天皇が、明治天皇になったとたんに達筆になり、虚弱体質が、二十四貫目(約九十Kg)を超す巨体に成り、乗ったこともなかった馬を自在にこなし、つい三年ほど前、大砲の音を聞き気絶したことなど無かったように剛胆になった。これは一体何を意味するのか。
 結論を出す前にもう少し見ていこう。毎年、正月の初詣でにぎわう明治神宮、今年の出は何百万人だと必ずやってます。ここの祭神は、明治天皇と昭憲皇太后ですね。よく考えてみると、これって実に変ですね。明治天皇に対するなら、昭憲皇后でないといけない。なぜ、皇太后なのか。実はこの疑問、明治時代にも出て入るんですね。今更換えるわけにも行かないとかでそのままになってるんですね。ただ、括弧付きで皇太后の下に昭憲皇后と書いた。
皇太后だったら、明治天皇のお母さんに成るんですね。どうしてこんな頓珍漢なことになっているのか。
 昭憲皇太后は、左大臣一条忠秀での三女で一条勝子と言った。寿栄姫と改め、睦仁親王の皇后として入内し、後に美子と改名した。正式に皇后になった胸記されているのは、明治六年十二月八日であるが、慶応二年六月に見合いをして皇后に決定し、睦仁親王は慶応三年正月御大典を行っている。知的障害のあった、大正天皇が、一条勝子(昭憲皇太后)は父の皇后ではないと言おうとしたという。それはまさに真実ではなかったのか。
 明治天皇の肖像写真、大変よく使われ、大東亜戦争以前、ほとんどの家庭でお祭りしていたと言うほど普及していた。しかし、この写真、絵に描いた物を写真で取ったという。なぜそんなことをしたのか。畏れ多いから写真に撮れなかったのだなどというターケもいるが、顔に痘瘡をやった痕の、あばたが少々在った為、それを隠すためだったとも言われている。しかし、睦仁親王は、子供の頃、種痘を受けているのである。現代医学の七不思議の一つである。


 これらのことが一体何を意味するのか。一言で言ってしまえば、睦仁親王と明治天皇は別人である。
そんなことがあり得るのか。しかし、あり得ないことがあり得たからこそ、明治という時代が開けたのではないか。
 慶応三年夏、睦仁天皇は軽い風邪を引いた。尊皇派の重鎮達により、薬が調合された。そんなことのあったすぐ後、皇居から、睦仁天皇の母の実家である中山家へ、一体の等身大の仏像と称する物が厳重に布でくるまれ運ばれた。このことはしっかり文章に残っている。ここから、想像をたくましくすれがば、この仏像は、実は、毒殺した睦仁天皇の亡骸であった。そして、尊皇派によって、仕立て上げられた別の天皇が、すり替わった。この陰謀に、中山家が、加担すれば、それは容易いことではないか。一つ疑問が残るのは、中山慶子が、実の子どもの暗殺に加担するかと言うことである。実は、中山慶子が妊娠したとき、激しい腹痛によりしょう産の疑いがあったのである。このことはなぜか宮中には知らされなかった。無事良くなったと事なきを得たようになっているが、死産を隠し、赤ん坊を取り替えた可能性もあるのである。「権典侍様御用雑記」などは、その時のことを記している。ならば、一度やったことは二度だって出来る。すり替えなど、中山家にとって自らの権勢が維持できればいかほどのことでもない。後は、天皇近くにいた幾らかの公家を懐柔すれば済むことである。事実、中川宮などは、名を何回も換えているが、孝明天皇寄りで、攘夷派だったにもかかわらず、明治以後も公家社会の中枢に君臨している。
 孝明天皇暗殺の噂は、当時公家社会の中でかなり話の遡上に上っていたという。明治天皇だって耳にしないはずはない。大変英明だった明治天皇が、真に孝明天皇の子ならば、この噂の中心人物である、岩倉具視や大久保一蔵を快く優遇したであろうか。たとえ噂だけでも。岩倉に至っては、其の病の枕元まで、天皇自ら出かけ見舞っているのである。
私にはとても理解しがたいものがある。
 すり替えた天皇は、遷都の号令も何もなく、そそくさといち早く、江戸を改めた東京へ移された。そして明治と改元した。東京に移った天皇は、鳥羽伏見の戦いを前に騎乗の騎士と成り得たのである。


 ならば、すり替えられた明治天皇とは誰なのか。
幕末、尊皇思想が起こってくるには、其の素地がある。黄門様でお馴染みの水戸光圀の、大日本史編纂以来、水戸藩における思想体系は、尊皇思想であったと言っても過言ではない。幕末の藩主、水戸斉昭、其のブレーンの藤田東湖が、其の全てを代弁している。「将軍家は本家、禁裏は主君。」「いざと言うときは、禁裏にはせ参じるのが本来の姿。」そして、其の禁裏とは、彼らの思想上、それはいわゆる南朝を以て正当であるとしていた。右の銅像写真は、水戸の頭脳と言われた、藤田東湖である。
 幕末の世、ただ単に書物の上だけでそう言っていたのか。そんなことはない。彼らは隠し玉を持っていたのである。南朝の血を引く末裔であるというふれ込みの熊沢家。熊沢天皇である。同じく、この水戸の思想に影響されながら、やはり南朝を正当視する、松下村塾が、長州にあった。ご存じ、吉田松陰の塾である。そして、彼らもやはり南朝の末裔という大室家。大室天皇を要していたのである。いざと成ったら、この天皇を担ぎ上げ、革命を起こす。これが、彼らの最終目標で在った。幕末において、どちらも極めて行動的であったが、維新においてリーダーシップを取ったのは、長州をはじめとする西国の諸藩であった。担ぎ上げられたのは、大室天皇であった。ただ其の事実は隠された。思ったよりスムーズに進んだ大政奉還、明治維新。隠し、事なきを得たほうが、社会掌握に良いと判断された。南朝再興の念願が果たせたと、あるいは思ったかもしれない大室天皇は、肩すかしを食ったことになる。
 左の肖像画は吉田松陰である。(こんな年寄りくさく描かれた松陰も一寸、気の毒であるが。)松陰は、叔父玉木文之進の松下村塾を受け継ぎ、其の教育に当たる。わずか二年足らずであったが、其の影響は多大であった。
 奇しくも、亡くなる前の松陰の考えは、「草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外頼みなし」であった。
 この松下村塾の遠からずに麻郷村(おごう)と言うところがある。ここに大室家はあった。慶応年間、高杉晋作の造った奇兵隊へ良く出入りしていた活発な十六歳前後の少年がいた。馬にも乗り、相撲も良く取った。彼の名を大室寅之祐と言う。
大室家は、九十六代、後醍醐天皇から四代目、松良天皇の末子光良親王の血を引くと言われている。いったん草莽の民となった者に、その真実のほどを云々するのは難しいが、光良親王は応永の乱(1399年)後、大内氏に従い周防へ下向し、麻郷村の麻里府に住み着き、大室と名乗ったというのである。
 この家の大室寅之祐が、尊皇開国派に担がれ明治天皇になった。慶応3年夏のことである。
明治維新、新生日本の事相成り、社会もほぼ固まってくると、この事実は絶対に隠蔽しなければならない最極秘のこととなった。ここに、明治憲法の第1条と3条の出来た必然性が浮上してくる。
 其の伊藤博文も亡き、明治四十三年頃南朝、北朝正当論議が学問の場で盛んになった。其の論議に幕を下ろしたのは、外ならぬ明治天皇であった。 「南朝が正当の王朝である。」
孝明天皇はもちろん北朝である。其の子であるなら、当然明治天皇も北朝である。自らを否定することである。学者の間には、内心かなりの混乱と疑問があったに違いない。しかし、それは、天皇は神聖にして犯すべからずと言う強権憲法のもとにオブラートにくるまれてしまった。自ら、南朝を名乗れなかった明治天皇のせめてもの自己表現であったのかもしれない。明治天皇自ら造らせた、北朝天皇家の系図、「纂輯御系図」には、後花園天皇の父後崇光院貞成親王の父は、不詳となっている。
これでも、明治天皇は孝明天皇の子で有り北朝といえるのか。
 この第一部、二部を書くに当たっては、ねずまさし氏、鍋谷博氏、鹿島昇氏、左方郁子氏らの書物に負うところが多かった。しかし決定的な資料は何もない。いや明治以降の歴史を考えれば有る方が可笑しいのかもしれない。何もないから、そんなことはなかったと言ってしまえば、改竄者、焚書を行った支配者、発禁処分にする圧力、こいつら達の思うつぼであるような気もする。資料の端々の含みを読み、ぽろりと漏れた言葉に目を配らせる。それらを憶測でつなぎ合わせてみる。民間伝承や風説を拾い集めてみる。歴史の検証から言ったら邪道であろう。しかし、不思議にも、そうすることにより私の思っていた素朴な疑問が、次々に、するすると解けるのである。確証は何もない。ただ、一つ言えることは、真の歴史は生臭いものであると言うことである。生臭さを嫌ったら、真の姿は見えてこない。

明治維新の第一功労者はあっし、慶喜でやんす。

--------------------------------------------------------------------------------


第三部

          世の中は不昧因果の小車や
                   よしあしともにめぐり果てぬる。


 前段、拙い文章であるが、これだけ書くにもパソコンの廻りは資料本が山積みになった。その中でも、どっしと存在感を示しているのが、「孝明天皇紀」と「明治天皇紀」である。箱入り菊判、一巻当たり約一千ページ、「孝明天皇紀」は5巻、「明治天皇紀」に至っては13巻。幕末、明治を調べるには、この二つは、ちょうど都合がよい。しかしこれ以外はないのである。孝明天皇以前の天皇も、明治天皇以後の天皇も天皇紀はない。この二つの天皇紀、奇しくもあったと言うよりは、作られるべくして出来たと言った方がよいのではないかと私は考えている。もちろん、私が前段で出した結論なんか書いてない。噂のうの字も書いてない。明治元勲のきな臭い話もいっさい無い。巷のいっさいの噂はなかったかのように取り澄ましている。当にそこが狙いだったのではないか。
 孝明天皇も、明治天皇も、その扱いにおいて時の権力者が極めて危ない綱渡りをやっている。何時ぼろが出るか分からない。彼らが望む歴史感を示しておく必要がある。隠すだけではなく、見本を示す。そんな思惑から、この二つの天皇紀は生まれたにちがいない。
 
 日本歴史観の大道を泰然とを歩まれた、作家の司馬遼太郎氏。この司馬氏が、珍しくも罵声を以てこき下ろして居られる本がある。「日露戦史」十巻、官修で有る。
「私はこの全十巻を昭和三十年頃大坂の道頓堀の古本屋で買った。目方で売る紙クズ同然の値段だった。古書籍商人というものは本の内容についてじつによく知っており、値段は正直に内容をあらわすものなのである。」
と手厳しい。
日露戦争の、勝った、勝ったの浮かれたところだけを書き、まずいところ、都合の悪いところは全てカットした。何の反省も示さず神懸かり的になった。結果的にその後の日本が、キチガイ国家になっていくのである。それでも、まだ時の権力は、その書き方に不満であり、この本の監修責任者は、一生、冷や飯を食わされたという。
 今、私は思う。司馬氏は、たまたま日露戦争の小説を書いて居られる中で、「日露戦史」について触れられたが、明治という時代の官製の本の大半は、こうだったのではないかと。司馬氏の言葉を借りれば、「孝明天皇紀」も、「明治天皇紀」も紙クズである。ただ、私には眼力がなかったので、古籍商に大枚を払ったのであるが。
 
 憲法で縛り、わざわざ天皇紀を出し、いっさいの批判を封じ込めた。天皇をひたすら神にしたのは、国民に疑問の余地を残さないためではなかったのか。14代将軍を殺し、孝明天皇を殺し、睦神天皇を殺し、すり替え明治天皇を作ったことをひたすら隠し、抹消するためでは無かったのか。神格化された天皇は、大東亜戦争に向かってひた走ることになる。
 今5,6行ほど戦後を書いたのであるが消した。あまりの生臭さが、自分ながら鼻についたので。話題を少し転換しよう。
 
 明治は、その憲法で武装すると同時に、その前の時代を批判することでもその正当性を主張した。現在でも当然のように言われているそれらのいくつかに疑問を投げかけてみよう。
 江戸時代は士農工商の身分制度があったが、明治になり四民平等になった。これ本当だろうか。確かに「士」については、多分身分が上だったような気がする。でも、「農」が「工」より上だったといえるのだろうか。「工」が「商」より上だったといえるのだろうか。私には理解しがたい。あえて理解しようとすれば、儒教の欲目であろう。ようは単なる職業分けでしかないように思える。江戸時代をもちょっと覗き込んでみると、各職業それぞれにかなり細かい身分制度があったように思われる。あるいは階級制度と言った方がよいかもしれないが。
 「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや大名に」
こんな落首を耳にしたことがある。本間様というのは百姓である。百姓は百姓でも大百姓である。庄屋の中の庄屋、大庄屋である。大名をもしのぐ勢いがあった。だからこんな落首が生まれた。本間様だけではない。全国に大なり小なり、かなりこういった姿があった。私の生まれた隣町にも、長尾様という大庄屋があった。近隣で、しかも長尾と言う名字だが、残念ながら我が家とは血統が違うようである。名字帯刀は勿論のこと、尾張徳川家の家老クラスであり、京都からは時の関白が時々訪れ、歌をいくつか残していると言う郷士である。しかしこの長尾様も百姓であった。
江戸吉原の遊女、花魁のトップは、下っ端役人なんか足下にもよれなかったという。売春婦だってこのとうりである。武士だって、下っぴいは、実状厳しく武士を投げ出した人間もかなりいたようだ。一番上の身分と、一番下の身分のものが、一つ座敷で膝をつき合わせ、酒を酌み交わすなぞと言うことが、インドのカースト制度であるだろうか。絶対にない。
しかし、日本ではこの場面がないと時代劇が成り立たない。

 職業によってピンからキリまであった。そこには目に見えない階級制度があったように思われる。このように考えた方がよいようである。何であれ、その職業のトップに上り詰めれば、大名のように扱ってもらえた。そう言った下地があったからこそ、商工業が洗練され明治以降の産業改革で、いち早く世界に並ぶことが出来たのではないか。朝鮮半島で高度な技術を持ちながらも、陶芸なんかが廃れてしまったのは、何も秀吉の性ではない。陶工などは、どんな芸術作品を作ろうと、下々としか扱ってもらえなかったのである。儒教の持つ醜さの一面である。
 士農工商による身分制度などというのは、どうも明治になってからこじつけたまやかしのように思える。江戸時代、本来の階級制度は、それなりに社会にマッチし、かなり上手く機能していたのではないかと思っている。それよりも、明治になって作られた、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵なぞと言った、身分制度のほうが、ずいぶん子供じみており、日本社会から浮き上がったあぶくのように思えるのだが。

 今まで何気なく書いてきたが、名字について考えてみよう。江戸時代まで、一般庶民には名字はなく、武士だけが付けることが出来た。私たちが、今名字を名乗っているのは明治になってからのことである。これって本当だろうか。私の家に江戸時代に書かれたものが若干残っている。明らかに百姓と思われる人々が、名字つきで書いてある。今もなじみの名字である。どうも、当時、日本のほとんどの国民は名字を持っていたようだ。只、正式の公の場で使えなかった。公の文書に残すとき、書けなかった。と言うことであるようだ。徳川270年の時の長さと、(江戸時代は、前半人口が増えたが、後半は全く停滞していた。)明治初年からの人口増加により、元々名字のない人々も若干いたようだが、大半は、今までも使っていた名字を公の場でも使えるようになったと言うことである。又、何か社会に裨益有れば、名字帯刀を許されることは結構あったようだ。江戸末期の相馬藩などに至っては、10人以上子供を産めば、名字帯刀を許されたところもある。四角四面の制度ではなかった。明治新政府は、手柄を吹聴しすぎであるようだ。

 次に鎖国についてみてみよう。江戸時代、鎖国によって国を閉ざしていた。そう言いきってしまうには問題があるような気がする。当時の大国、清とは国交があったし、隣国朝鮮とも国交はあった。経済活動を活発化していたオランダとも国交はあった。正式の国交を絶っていたのは、キリスト教を先兵に他国を蹂躙していた一部の海賊国家だけである。山岡荘八氏が、小説「徳川慶喜」の中で、幕末の論客、橋本左内に言わせている。「・・・・・とにかく外夷のうちでも曲者はイゲレスです。これが侵略性のもっとも強い国のようですから・・・・・」とにかく、当時、これら海賊国家を受け入れたアジア、アフリカ、中南米の多くの国のその後を見れば、幕府の判断は正しかったと言わざるを得ない。鎖国と言う、とんでもない行政のために、世界から取り残されたというのは間違いであろう。維新、開国の正当性を強調するための方便であった前時代への揶揄が未だに信じられている。
 ここで少し、触れておくと、ペリー来航以来、幕府は開国やむなしであった。それに猛反対をしたのは、水戸をはじめとする尊王攘夷派であった。その後、尊王攘夷派は攘夷派と開国派に分かれる。この開国派が尊皇開国、討幕派として明治維新を迎えるのである。渡航制限をしたのは勿論幕府であるが、開国をしたのも幕府である。新政府の手柄にしてしまうにはチト疑問が残ると言うことを認識すべきである。 
 
 尊皇開国、倒幕による明治維新の正当性は、国民の間に、徹底的植え込まれた。そのために多く持ち出されたのは、古代史である。古代史より拾った大化改新をことさら肥大化させ、明治維新にオーバーラップさせる。政治的独善者、後醍醐天皇を聖帝の如く祭り上げ、建武中興を明治維新になぞらえる。古事記、日本書紀は聖典になり、陰謀や相続争いや人殺しの話を美しい神代の物語だと言い張ることになった。歴代の天皇誰一人として参ったことのない伊勢神宮を天皇の宗廟だと言い張り、国家神道中心の神様にした。ちなみに、伊勢を初めて参ったのは明治天皇である。長年にわたり斎宮を送っていたではないかと人は言う。しかし、これ、天皇に近い近親の未婚の女性である。まるで人身御供のようではないか。さもなくば、弱みを握られた勢力が差し出す政略結婚の姫である。歴代の天皇、熊野山々へは良く詣っているのに、伊勢へは一回も誰も詣っていない。宗廟と言うには、あまりにも腑に落ちない。天照大神の苦笑いが見えそうである。
 
 西行が、伊勢参宮の折り読んだ歌がある。
「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさの 涙こぼるる」
西行と言えば、鎌倉初期の僧である。時の識者と言っても良い。その彼が、どんな神さんか解らないと読んでいるのである。現在の私も、西行と同じ心境である。
 明治以降に作られた歴史象で、物事を図るととんでもない間違いをするおそれがある。特に古代史においては、明らかに明治以降の思惑によって彩られた歴史象であり、真の古代の姿とは遠くかけ離れているように思われる。大東亜戦争敗戦によっても、いかほども変わってはいない。子供だましのごり押しを修正した程度で、科学的になったなどと厚顔無恥も程々にしなければならない。
 王政復古などと言う四文字熟語で、国民を煙に巻き、大昔のこと、わかりゃしない。時の権力のいいようにあしらってきた。この負の遺産は現在も受け継いでいる。

 明治憲法の第1条と第3条は、その発布以来、日本に多大な影響を与えた。国民をコントロールするキーワードになっただけでなく、アジア近隣諸国を侵略の恐怖に陥れ、自らも破滅の道を選び、国民を悲惨な状況へと招き入れることになった。伊藤博文の思惑をはるかに越えて動き出したのではないかと思っている。この憲法発布から110年になろうとしている。もうその呪縛から逃れ、この時代を透明な目で眺め直してみる必要があるのではないか。
 皇太子がパレードをするのに、3m置きに、しかも二重に警察官が並び、国民をにらみつける。それほど国民との信頼がない。それほど、国民が危害を加えるおそれがあるとするなら、この国にとって、もはや、こんな制度は必要でなくなったのではないか。この国は、まだまだ北朝鮮の政治体制を笑えるような国ではないようだ。

武具馬具屋 アメリカ様とそっと言い。

--------------------------------------------------------------------------------


京都明治天皇(朝日新聞に掲載)
http://www.geocities.com/meiji0066/

(025.jpgwをクイック)


東京明治天皇(大室寅之祐)
http://photobank.mainichi.co.jp/Thumbnails//r!s-z-/r!lk-/biby-//m.jpg

 次へ  前へ



フォローアップ:



 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 2021年6月09日 07:08:53 : FoP2Dr9OdQ : aTNodDdDUFdFdEk=[-2093] 報告
transimpex_ochd(スコットランド・ケール語で8です)で投稿しています。

如何も明治維新と呼ばれる江戸から明治へと移る所での歴史を見て居ると

とんでもない違和感を感じる事があった。

学校では、一番大事な所を教えないので、自分で調べるしかなかったが

その違和感は、大人になっても拭い去る事は出来ず、現実の象徴と称された

人達を見ても違和感しかなかった。

理由は、日本人ではない人達だからでしょうか?

皇室制度廃止で本当のまともな国へとなる事を願います。

譲位劇・即位劇の茶番劇など如何でも良い。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数のため全部処理


  拍手はせず、拍手一覧を見る

★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。