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(回答先: Re: キリスト教カルバン主義の観点から資本主義の動機を解明するのは限界がある。 投稿者 行司 日時 2002 年 10 月 10 日 16:21:48)
>キリスト教新約聖書の実態はパウロの手紙を中心としたパウロの教義、パウロ教です。キリストその人の
>言葉は非常に少ないですね.ただ、キリストの教えの核心は愛です.つまり利他心です。したがって、利己
>心(self interest)は、基本的には逆の価値になります。また、キリスト教では金銭を鵜ることを反対してはい
>ませんが、カネをうるのは自分の生活が成り立つ範囲にしなさい、余剰分はほかに与えなさい、という教え
>といってよいでしょう。
「パウロの回心」ですが、ローマ人であったパウロの独創は、予言者イエスがエレミアの予言した救世主で
あり、人間の罪を肩代わりして無実の罪で十字架にかかった。従ってこのイエスに従う以外に贖罪は無い、
というのがキリスト教の核心だと理解していますが。
カルバン主義では神の絶対性を強調して、「神の計画は人知の及ばないところにある」「救済は予め予定され
ていて、人はこの計画を知ることはできない」といったものではなかったでしょうか。
このことは心理的には進化論と同様な効果を及ぼすのかもしれません。進化論では、適者が生存するわけで
すが、何が適者なのか予め知ることはできない。つまり、”結果がすべて”ということになります。
ただ、ここにもパラドックスがあって、進化論の信奉者が適者だという保証はどこにもないし、”結果”と
いっても、これはあくまで”今日の結果”にすぎないわけです。
たしかにウエーバーは資本主義にいい印象は持っていなかったようですね。