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(回答先: 民主主義について 投稿者 カレラ 日時 2002 年 10 月 10 日 09:19:40)
カレラさんの言説で一つ気になるところがあるので、まずそれについて書きます。
[イスラムを同じ経済システムに引き込む理由は?]より
>フセインが排除された後のイラクが民主的な政治体制を選び取るのか、はっきり言っ
>て分かりません。また、そこで展開される情勢が周辺中東諸国にどのような影響を及
>ぼすのかも分かりません。私自身は、民主的プロセスを経た上でなら、サウジのよう
>な王権でもイランのような宗教指導者による統治でもどちらでも構わないと思いま
>す。当初より一貫して主張している通り、イラク人民に独裁軍事政権ではなく、「選
>択の余地を与えよ」と考えています。
[民主主義について]より
>民衆はそう単純でもないし、バカでもない。全体主義下で弾圧を加えられたら、奮然
>と立ち向かうこともあるし、自分達の選んだ真の偉大な指導者には不平をこらえて付
>き従うものです。
後者の論であれば、フセイン政権が全体主義下で弾圧を加え続けたらイラク国民の“反乱”があるわけで、米英が軍事力でフセイン政権を排除する“大義名分”の一つとして民主化を上げられるのはおかしいと言わざるを得ません。
イラク国民は、カレラさんの後者の論をそのまま返してくると思われます。
来週、イラクではフセイン大統領の「信任投票」が行われます。
米英などは、その結果が信認であっても、操作された結果だと言って取り合わないでしょう。しかし、そうであるならば、米英軍事管理下にあるイラクで選挙が行われても、その結果は操作されたものだと主張できます。
(バース党が壊滅すれば、スンニ派イスラム主義が多数派を形成する可能性が高いのですが、それを米英政権が認めるとも思えません。投票の操作ができないと判断すれば、“危ない”勢力はテロリストや原理主義者とレッテルと貼って選挙から排除するはずです)
私の判断で言えば、米英が攻撃を公言している戦前の対米開戦前よりもある種極限状況と言えるイラクの状況で“反乱”が起きないのは、フセイン大統領が高いレベルで権力を掌握し国民からの支持も受けている証になります。
(フセイン政権自体がクーデタで樹立された政権ですから、“危機的な状況”でクーデタが起きないという国柄ではありません)
>しかし、いずれにせよ、戦前の社会システムよりも戦後の社会システムの方が優れて
>いることは否定し得ないわけです。
>このアナロジーをイラクに当てはめると次のようになります。イラク人民も戦争に巻
>き込まれることになり、大変な災難です。
>当時の日本人がそうであったように、民衆レベルでも多くがアメリカに敵意や憎悪を
>感じているかも知れません。
>しかし,民衆が自分達の代表を自分達で選べるような仕組みになれば、かつての日本
>人やドイツ人がそうであったように、アメリカに感謝するようになるかも知れませ
>ん。今回の災難を奇禍とし、人民のための統治に近づく可能性があります。
日本の近代的統治形態や社会システムを戦前と戦後で比較したとき、戦後のほうが“合理的”だと考えています。
繰り返しになりますが、イスラム=ムスリムを軽く見ればドツボにはまることになります。(米英政権に対して言っています)
90年のクウェート侵攻も、イラク国民の多数派にとっては「英国に奪われた領土」を回復するという意味合いがありますから、多数の犠牲者を出し、長期の経済制裁を受けても、フセイン大統領を非難する大きなうねりにはなっていないのです。
米英とは異なるとは言え近代主義を基礎としていた日本やドイツの国民と、根っこはイスラムを信仰しているイラクの国民は違います。
ムスリムは、国家が利息取得を保証し個人の利潤追求をサポートしている西欧型統治を「人民のための統治」だとは判断しません。
イスラム教徒多数派諸国とりわけ中東諸国で、社会主義政党は大きな勢力になれたにも関わらず、米西欧的自由主義政党はまったく根付いていない現実を直視すべきです。
中東での社会主義勢力の隆盛は、押し寄せる近代とイスラムをなんとか融合することで近代世界のなかの国家として生き抜こうとする判断の現れです。
バース党もそういう勢力の一つです。それを米英が軍事力で崩壊させれば、イラクが分断してしまうような大混乱か、宗教勢力の政権掌握しか道は残っていません。
それがわかっていながら、米英政権はフセイン政権を倒そうとしているのですから、背後にある意図を“深読み”せざるを得ません。
>あっしらさんの議論だと、民主主義などそれほど優れたシステムじゃない、要するに
>お前達庶民はつつがなく暮らしたいだけだろ、統治のような高級なことは君らは考え
>んで宜しい、もっと頭の良い人が考えるから、と感じられることがあります(勘違い
>かも知れませんが)。
勘違いですね(笑)
国民ないし属する人々が国家や社会のルールや政策を最終的には決定するという意味での「民主主義」は好ましい価値観だと考えています。
「近代経済システム」を基盤としている国家が代議制民主制を採用することも合理的だと考えています。
他の書き込みで書いたことがありますが、経済活動もそれほど重視されず、政治活動もそれほど必要でない国家社会に移行していくことを志向しています。
(国家のイメージとしては夜警国家論に近いかも知れません)
「お前達庶民はつつがなく暮らしたいだけだろ、統治のような高級なことは君らは考えんで宜しい、もっと頭の良い人が考えるから、と感じられることがあります」という感想を援用させてもらえば、『国家運営に興味がない庶民は政治にことさら関わらなくてもいい。しかし、決まった法律には強制力を行使してでも従ってもらう。もっとも望ましいのは、自分や家族そして国民全体がどうなるかに関心を持って政治に参加することであり、それは、最終的には票決になるが、自分の考えを主張することで実現して欲しい』というものになります。
代議制民主制を否定する直接民主制の亜流ということになります。
重層的なものですが“議論の場”に参加しない国民は投票権もありません。(もちろん発言の有無は問われません)
10年ほど前から、日本では「支持政党無し」が“第一党”になっています。
これは、理念や政策体系でぴったり合う既存政党がないと考える人が多数派になっているということを意味します。
投票行為の基準は、その時々の大きな政策テーマに対してどういう態度をとっている政党や候補者なのかになっているはずです。
(自分が何より重要なものだと考えている政策テーマを取り上げている政党や候補者がいなければ、“普通”の人はどうしようもありません)
自分自身は政治活動に深入りする気はないが、国会議員や候補者を見て、彼らの判断に委ねてしまうことになる投票行為に疑念を抱いて棄権する人も少なからずいると思っています。
紙切れに名前を書くことで、その人に政治的判断をすべて預けることになります。
ましてや小選挙区で事前情報も得られるのですから、結果が見えている選挙区ではあの人に入れても無駄だという判断も生まれます。(最大49.99%の投票者の意向は捨て去られます)
立候補している人たちのなかから選択しなければならない。自分が立候補しようにも、日々の生活に追われている身としてはそんなことに時間を費やすわけにもいかないし、少々余裕があっても供託金や選挙活動にかかる厖大な費用は負担できないと考えるのが“普通”の人でしょう。
前回書いた、「“民主主義”は、政治制度としてはベターなものだと考えていますが、価値観としてはそれほど評価していません。人々を国民という抽象的な存在にし、ばらばらの個にしていることを好ましいとは考えないからです。そのような政治的存在状況で“平等”や“自由”を声高に叫び擁護すれば、どのような社会状況が生まれるかは、戦後の日本史を顧みればわかることです。個人が出発点ではないという「社会」の自明的論理を今一度見直す必要があると思っています。(米国の「アジア分断策」ではありませんが、個に分断していることは支配者にとって都合がいいものです)」は、こういう思いの反映です。
>もっと言えば、たとえ民主主義が衆愚政治に堕すことがあってもその弊害は民衆が甘
>んじて受けねばならないものなのです。
>ナチス以前のドイツも軍部台頭前の日本も民主主義でした。それが全体主義に乗っ取
>られ、米国に叩き潰される事でより高次の民主主義へと発展を遂げたのです。だか
>ら、民主主義も生易しいものではない。厳しいシステムです。
民主主義というか代議制民主制は、紙切れに候補者名や政党名を書くことで“全権委任”し、その候補者が公約を裏切る政策決定を行っても、民衆の責任だとされるものです。
(公約に反する判断を国会で行った国会議員が「詐欺罪」で告訴されたという話は寡聞にして聞いたことがありません)
国会議員は、たとえ多くの国民に大災厄をもたらす判断をしたとしても、私を選んだのは有権者であり、私が勝手に国会議員になったわけではないと自己弁護できます。
この論理が内閣総理大臣にまで延長して適用できるのが議院内閣制です。
(こういう自己弁護を考えるだけでも、私に言わせれば、国会議員としての適格性がないとということになります)
アルゼンチンの大統領はフォークランド紛争で敗戦したことにより死刑になりましたが、「大東亜戦争」では戦勝国に事後法で裁かれて死刑になった統治者はいても、国法で裁かれた人はいません。(戦勝国に死刑に処された人が靖国神社に祀られてはいますが...)
国家や国民が、「大東亜戦争」の敗戦責任を明確にしようとしてないくらいですからやむを得ないとがいえばそういうことになりますが...
代議制民主制は、上述したかたちで選ばれら国会議員が思考力と判断力を駆使して法律や政策を決定するものでありながら、その究極的責任が国民に還元されるという「厳しいシステム」です。
責任問題をおくとしても、民主制であれ、独裁制であれ、統治者が生み出した害毒は民衆が甘んじて受けねばならないものなのです。
>人間は生まれ育つにつれ、自我を確立してゆきます。この自我は、自分の生き方を自
>分で決める、自己決定の意志に繋がります。勿論、周りの様々な環境のもたらす影響
>は大でしょうが、自分にとっての世界が広がれば広がるほどこの自己決定の欲求は強
>まり、それを阻害する要因を取り除こうとするように考えるのは極めて自然なことで
>す。
自我の確立に家族・隣人・公教育・メディアが強く影響を与えていることを軽んじることはできません。
とりわけ、世界観・経済価値観・政治価値観の形成に与える公教育とメディアの影響力は大なるものがあります。
陰謀論的な論にならないために公教育やメディアなどを除外しても、「自分の生き方を自分で決める、自己決定の意志」と信じてしまうことに危うさを感じます。
そこだけは自由であると信じることができそうな「頭の中」も、決して自由ではなく、他者規定的というか自己−他者関係的なものであるという自覚が必要だと考えています。
再度、「“民主主義”は、政治制度としてはベターなものだと考えていますが、価値観としてはそれほど評価していません。人々を国民という抽象的な存在にし、ばらばらの個にしていることを好ましいとは考えないからです。そのような政治的存在状況で“平等”や“自由”を声高に叫び擁護すれば、どのような社会状況が生まれるかは、戦後の日本史を顧みればわかることです。個人が出発点ではないという「社会」の自明的論理を今一度見直す必要があると思っています。(米国の「アジア分断策」ではありませんが、個に分断していることは支配者にとって都合がいいものです)」と示します。
>この意味から、自由、民主という理念は実は宗教を超えているのではないか、人類に
>共通する普遍的価値を持つのではないか、と考えるものです。
宗教を狭く考えていると思われます。
「人類に共通する普遍的価値」という考え方は宗教そのものです。
これは、カレラさんに対する揶揄でも、示された普遍的価値に対する揶揄でもありません。
良きにつけ悪しきにつけ“グローバル”な世界ですから、「人類に共通する普遍的価値」という視点は重要だと思っています。
宗教というのは、生存活動という根源的条件さえも他者関係的のなかではじめて維持できる人々の在り方を形而下・形而上の両面においてトータルに示そうとするものです。
自覚するにしろしないにしろ、論理的な他者関係性が“グローバル”なものになっているのですから、「人類に共通する普遍的価値」の形成が必要です。
「自由、民主という理念は実は宗教を超えているのではないか」という思いは、宗教を心のなかの問題としている近代価値観(近代宗教)に囚われている精神情況の反映だと思われます。
経済価値観や政治的価値観を宗教と分離しなければならないことが、「近代経済システム」が孕んでいる「非普遍的価値性」を如実に現しているとも言えます。