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(回答先: Re: あっしらさーん!(知的タフネスの王おいでませ) 投稿者 カレラ 日時 2002 年 10 月 08 日 17:17:42)
行司さんの過大な評価が伴うお誘いにのって“木登り”を始めるのもなんだかと思っていますが、「論議・雑談2」で関わったテーマでもあるので、その責を果たす意味で書き込みます。
書記長が「日本改造とイラク攻撃」というスレを立てて口火を切った論議は、大きな関心と興味を持って読み続けてきました。
「朝日新聞」+「岩波書店」 Vs. 「読売新聞」+「産経新聞」+「文芸春秋」よりも、ずっと濃密で建設的な論議だと思いながら行く末を見つめていました。
「イラク攻撃問題」よりも緊急焦眉のテーマだと判断した「竹中プロジェクト問題」に気を奪われているということもありますが、「イラク攻撃」及び「日本近代史」について、書記長及びカレラさんの認識とのズレがあることも議論に割り込まなかった理由です。
「イラク攻撃」:イスラム法国家を消滅させるための契機であり、中東全域を政治的混乱に陥れる目的で米英が軍事介入を行おうとしている。
「日本近代史」:「大東亜戦争」の敗戦責任を第一義的なテーマとして論議すべきという立場。
書記長とカレラさんの論議に上述のような立場で割り込むのは、議論を混迷に引きずり込むことになるという危惧はご理解いただけると思います。
そのような自分の世界認識に関わる部分は除外してコメントします。
● まず、「イラク攻撃」の是非についての立場
「論議・雑談2」で書いたように、様々な理由から反対です。
しかし、英国はともかく、米国政権のイラク攻撃を止めることはできないと考えています。
それであるならば、米国政権の従来的対外政策が覆るかたちで推移して欲しいと思っています。(今次の中東介入政策は、米国民多数派の価値観を根底から揺るがすものになると予測しています)
フセイン政権には、自国民の犠牲をできるだけ少なくする軍事作戦を採って欲しいという願いから、『正規軍を改編して遊撃戦部隊を! − ウェルカム!米兵作戦 −』( http://www.asyura.com/2002/war16/msg/396.html )という書き込みをしています。
日本政府の対応はU.N.安保理の決議次第になるのでしょうが、米国政権に対して「イラク攻撃」反対論を説けないのであれば、米英提出決議案が可決されないときは反対はしないが支持もしないという態度を示すべきだと考えています。
「フセイン政権に対する危機感は理解できる。しかし、それが理由であれば、査察を執拗に繰り返すほうが軍事攻撃よりも得策である。フセイン政権を打倒しても、イラク国民は、軍事侵攻してきた外国勢力とりわけ異教徒である米英の支配を甘んじて受けることはない。アフガニスタンと同じように、少数であっても、軍事的抵抗が続くことになる。そのような状況であれば、クルド人やシーア派勢力も独自の考えで軍事行動を起こすことになり、トルコまでを含む中東全域を政治的混乱に陥れる。軍事作戦や軍事駐留が長引けば、全世界のイスラム教徒が政治的な動きを始めるだろう。曖昧なイスラム教徒までがイスラムに目覚めるきっかけになる可能性が大である。そこまで見通した上で軍事行動に出るというのなら反対はしないが、日本政府としては支持や支援はできない。ご存じのように、日本も、勝算もなく落としどころも見えないまま米英蘭に対して戦端を開き手痛い敗北を喫した。最重要同盟国である米国がベトナムに続いて同じ轍を踏む可能性が高い事態を黙って見過ごすことはできない」
米英提出決議案が可決されたときは、日本政府も、国連決議を楯にしながら、非軍事的支援を行うしかないと思っています。
● 覇権国家
カレラさんは、米国支配層と同じように、グローバルになった経済関係(経済権益)を安定的に維持するためには覇権国家のスーパーパワーが必要だと主張されています。
それが諸国民の生活と安全を守るものではないと明言し、日本を含む先進諸国の“国益”(経済権益)を維持するために必要不可欠なものであるとするのなら論としては認められるものです。
近代価値観・近代統治ルール・近代経済ルールが世界を覆い、それらからの逸脱を軍事力で誅するスーパーパワーが存在していれば、“世界の平和”は維持されます。
本義的な帝国主義とは、そのようなもので、外国を植民地にして収奪するものではありません。
しかし、米英が世界を覆い尽くそうとしている価値観は、敬虔なムスリムには到底受け入れないものです。
受け入れられない価値観や統治ルールを押し付ければ、対抗行動が起きるのは必然です。
米英が勝利できれば、本義的な世界帝国主義がほぼ完成することになりますが、米英の勝利は不可能だと予測しています。
世界経済支配層は、中国やロシアは経済利益でなんとかなると踏み、絶対的抵抗勢力はムスリムだと考えている節がありますが、12億人のムスリムにイスラムとは何かを考えさせる契機になる今次の「大決戦」に勝つことはありません。
米国ブッシュ政権は、自己過信に陥って、自壊の道に足を踏み入れようとしています。
9・11が近代の終わりの始まりだとすれば、「イラク攻撃」は近代の終わりを加速化するものだと考えています。
※ パレスチナ問題を中心に、米国の非介入のほうが少ない犠牲で物事が解決されていくという主張を「論議・雑談2」で既に行っているので、スーパーパワーの存在が物事を穏和的に解決するものではないという主張は省きます。
外に利益を求めない経済システムになれば、スーパーパワーは不要な存在です。
● 敗戦後の政治改革
戦後の政治的価値観や統治形態と戦前のそれらを歴史過程性を抜きに比較して論じることには違和感があります。
戦前のそれらは敗戦によって廃棄を強いられたのであり、敗戦がなかったらどういう変容を辿ったかは憶測未満の話になります。
英国やフランスの貴族による大土地領有が濃淡の違いはあると言え自営農民育成に移行したように、マサチューセッツで顕著であったような米国のピューリタン主義(議員や行政官は独立派ピューリタンに限定)が解消されていったように、戦前の日本型統治経済構造も変容した可能性は高いと思われます。
「大正デモクラシー」よりも大きな政治的価値観的うねりが日本を襲ったかも知れません。それが、近代的経済発展にとって必要なものと統治者にも理解される段階が訪れたはずです。
(支配者と被支配者の分化は支配者ならどういうかたちでも追求するし、制限選挙もつい最近まで広く行われていた制度です)
戦前と同様に選び取れなかった戦後の統治形態は、それを良しとする側も、結果的に良かったんだからいいんじゃないということで不問に付すべきではないし、それとの類推で「米国の外国介入」を見るべきではないと考えています。
同じものを選ぶにしても、選び取るという過程があるのかないのかで大きな精神史の違いを生じさせるものです。
戦後の統治形態を是とする人が良かったからいいんじゃないというニュアンスの論を展開し、戦前の統治携帯も悪とは言いきれないという人が押し付けられたものだから問題だという論を展開しているのは、ある意味で面白い錯綜状況です。
戦後の統治論理を是とするなら、主権者である国民が根源的統治形態を選び取るべきだというのが筋だし、倫理・倫理に優れた人々が統治に責を負う政治形態も悪くないというのなら、与えられたものが良ければ問題はそれほどないはずです。(この部分は、カレラさんはともかく、書記長には当てはまらないものです)
敗戦責任も追及せず、バブルの責任も追及せず、現状の問題も追及しない“思考特性”は、統治形態さえも選び取ったことがないという歴史性に一因があると思っています。
“民主主義”は、政治制度としてはベターなものだと考えていますが、価値観としてはそれほど評価していません。
人々を国民という抽象的な存在にし、ばらばらの個にしていることを好ましいとは考えないからです。そのような政治的存在状況で“平等”や“自由”を声高に叫び擁護すれば、どのような社会状況が生まれるかは、戦後の日本史を顧みればわかることです。
個人が出発点ではないという「社会」の自明的論理を今一度見直す必要があると思っています。(米国の「アジア分断策」ではありませんが、個に分断していることは支配者にとって都合がいいものです)
● 戦前の統治形態
破滅的な敗戦に引きずり込んだことだけを理由にして、戦前の統治形態を容認することはできません。
軍部が統治を牛耳ることになるのも、統帥権の独立を掲げた明治憲法の規定からいって無理からぬものがあります。
(外圧のなかで長州と薩摩の武士団が中心になって起こした革命が明治維新であり、最後の支えとしての軍を重視した彼らの考えも理解できないわけではありません)
政治としての対外政策と軍事としての対外政策の一体性が確保されず、軍も陸軍と海軍を統合する主体がないまま、苛烈な帝国主義時代を生き抜こうとしたのですから、陥穽に落ちるのは当然だとも言えます。
外交と軍事が国策として統一されていない国家が、“国益”を維持できるはずもありません。
持久戦は無理だからと短期決戦志向で軍備を整えてきながら、持久戦が避けられない対米戦を始めるハチャメチャぶりは救いがないと断言します。
対米開戦を「死中に活を求めた」判断というのは、正当化どころか、言い訳にもならない妄言です。
(しかも、対米先制攻撃で始めるという愚かな作戦を採った軍は、おぞましいくらいに無能をさらしたと言えます)
イラクのフセイン大統領にも言いたいことですが、それで攻撃が阻止できるのなら、自分のお尻の穴まで自由に査察させるのが統治者の責務です。
そのような覚悟がない人は、国家統治者になってはいけないのです。