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(回答先: Re: 「そんな恥ずかしいことでも喜んで行うつもり」? 投稿者 さる念仏 日時 2002 年 10 月 02 日 07:39:28)
さる念仏さん、こんにちわ。
丁寧なレスありがとうございます。
● 「統治者」&「主権者」
私でもあなたでもない国民という抽象的な存在が日本国の「主権者」として法的に規定されていると認識しています。
個々の具体的な国民は、法で規定された条件で重層的な参政権を行使することで「主権者」としての権利を現実のものとしています。
「統治者」という言葉は、地方自治体を含む国家活動全般を担う人たちを含み、より強くいえば、地方自治体の活動をも規定する国家活動政策及び法律の立案・決定・遂行を担う人たちを指しています。
(国会)議員は、法律や予算の審議や採決を通じて、現実化しようとする政策の可否を判断する「統治者」だと位置づけています。
内閣(首長)は、国家統治機構の構成員を指揮し、決定された政策の遂行・過去の政策の妥当性チェック・現状分析・将来に向けた政策立案を行わせる「統治者」だと位置づけています。
裁判所は、民−民及び民−国家の法的対立に決着を付けたり、国家統治機構(検察)が犯罪者と主張する人を裁く「統治者」だと位置づけています。
憲法的世界観で言えば、「統治者」とは立法・行政・司法という国家活動を担う人たちです。
「統治者」や統治は、国民総体に多大な影響力を及ぼす立場や機能だと思っていますが、機能分化や社会的分業だと思っているので、ことさら“特殊視”していません。
● “国防”論議
現実を無視した価値観ベースで言えば、人的活動力を武器の開発製造や武器の輸入に費やしたり、30万人規模の常備軍を維持することは極めて無駄なことだと考えています。
そして、現実の話になれば、現行憲法に則って戦力不保持を貫徹するか、憲法を改正して戦力の保持や武力行使の条件をきちんと規定するかのいずれかだと思っています。
憲法9条で戦争の放棄と戦力の不保持を明言しているのですから、自衛隊合憲論の根拠となっている“国家の自然権”としての自衛権やそのための戦力保持を認めることはできません。
戦力や交戦権に関する法的明示がなければ、“国家の自然権”を持ち出して、軍隊を整備したり交戦することも法論理としては認めます。
法治国家でありながら、最高法規である憲法が損なわれている現状を放置することはできないという思いを持っています。
(現状の憲法解釈を通用させるのなら、殺された子供の敵討ちの正当化も成り立つし、他国の軍隊を駐留させている政府の非合法性を主張し強制力を持って倒す正当性も成り立ちます)
>一方で,憲法改正せず,原爆持たなくてもそれはそれでいい、と。この両者はね,価
>値構造上、正反対の両端なのよ。完全に論理体系の構造がことなるわけ。で,それを
>どっちでもいい,といってるってのは,要するに,依ってたつべき価値の基軸がな
>い、っとことなのよ。ヌエなのよ。
日本は法治民主国家であり、憲法改正条件も規定されているわけですから、私が主張している核武装を含む憲法改正ではなく、憲法が改正されなかったり改正されたとしても“戦争放棄”が国民の多数によって選び取られるのなら、それに従って統治活動を行うしかないということだけです。
かつてアップした内容になりますが、参考として私の“武装論”を添付します。
『中立かどうかはことさら決めておくようなことではありません。個人レベルと同じで、強欲でそれを達成するために凶暴性を発揮する国家はなかなかなくならいでしょう。ですから、堅固な防衛態勢を築く必要があります。私は外に撃って出るという必要性を感じないので、FP親衛隊国家保安本部さんのような軍備を整える必要はないと思います。それよりも、日本を攻撃した国家の首都に必ず到達できる体制で核弾頭を保有した方がいい(水を沸騰させるために核物質を使う原発に反対です)と思います。ロシアや中国のような“核兵器先制不使用”ではなく、係争状態の領土以外の領土に対し軍事的な攻撃を仕掛けたら、無条件に相手国の首都を核攻撃すると宣言します。(一発目は通常弾頭で(笑))その前提として、係争状態の領土以外、外国を攻撃する軍事行動は一切しないことを宣言します。敵国の首都に確実に弾頭を落とすためには、領土内の発射基地だけではなく、攻撃型原潜も配備する必要があります。簡潔に言えば、完全防衛型の軍備を志向します。
“今は日米安保後を睨んだ布石を打つべき時”は、“米英連合と新ローマ帝国の共倒れの時”で日本も倒れるときになると思います。
アメリカが健在という状態で、FP親衛隊国家保安本部さんの構想内容や私がここで書いてきたことを素直に実現できるとは思えません。
陳腐な言い方ですが、日本が倒れた後の“新生日本”において初めて実現できることだと思います。軍備の内容も、そのときの世界情勢と国内状況で決められるでしょう。もちろん、なににしても、現行憲法が改正されることが前提になります。
最後に。幸か不幸か“新生日本”にもたいした近代的資源はないので、侵略される可能性は極端に低いと思います。江戸時代の国学者平田篤胤も書いているように、本源的資源に恵まれていないヨーロッパに較べ、日本は生きるための資源に恵まれています。今はそれがメチャクチャにされていますが...外への拡大を志向せず、“経済成長”も追及しないのであれば、人口は3千万人で十分です。』
● 対米論議
戦後55年以上“対米追随・対米依存”のなかで日本の経済及び政治(軍事)は形成されてきました。
これまでの「統治者」は、“対米追随・対米依存”を緩和する志向さえ持たなかったのです。
そして、米国政権は、米国の“国益”を損なう行動をとる国家で軍事的に勝てると踏んだ相手に対して武力を行使することをそれほど躊躇わないと思っています。
さらに、米国政権は、必要であれば、その国を軍事攻撃することが当然だという世論(国際・国内)を形成する策動も行います。
経済についても、米国が経常収支で4千億ドルの赤字を計上し、米国政府が2兆ドルを超える対外債務を抱えていながら、対米輸出が国民経済の循環にとって大きなウエイトを占める構造を維持しようとしています。(対アジア輸出も迂回的な対米輸出と認識しなければなりません)
このようなことを前提として、対米問題をあれこれ論じています。
対米関係を唐突にこじらせる政策を採ることができないというのが日本の現状です。
“対米追随・対米依存”を緩和する第一段階は、あなたが言われる「obscurantism(あいまい主義)」しかないと思っています。しかし、それは、“対米追随・対米依存”とは大きく異なる政策転換です。
強大な軍事力があるから“ヤクザな対外政策”を採るのか、“ヤクザな対外政策”を実行するために強大な軍事力を備えているのかは別として、軍事的に最も警戒しなければならない国家は米国だと考えています。
軍事的な牙が向けられなくとも、経済的な牙がむけられることもあります。
経済封鎖や貿易制限を行わなくても、金融的手法で日本経済をさらにおかしくすることもできます。
そのような米国を相手にするときには、確固たる信念と冷徹な論理で交渉に臨み、めざす落としどころを突き付けたときに相手がどのような対応を示すのか探りを入れながら態度を決定しなければならないと思っています。
北朝鮮との国交正常化交渉という新しい地平が開け、米国が「対イスラム戦争」にのめり込もうとしている今こそ、“対米追随・対米依存”から徐々に脱却していくチャンスだと考えています。
現実の対外条件を徐々に変えていかなければ、“対米追随・対米依存”から徐々に脱却してくこともできないと考えています。
もちろん、様々な災厄を覚悟して、“対米追随・対米依存”から一気に脱却するという政策も選択肢ですが、それこそ、根底的な価値観・世界観の転換が必要だと思われます。そのような意識情況に国民多数はないと見ています。
「応援歌」はありがたく拝聴しました。