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短期的な経済政策問題に徹するという自戒を込めながら書き込みを続け、本来ならばずっと先に書こうと思っていたことだが、既に書き込みのなかで「定常状態」という言葉を数回使い、「匿名希望」氏とのやり取りを通じて、「こういうグランド・デザインを描く時には、今の延長線上で物事を考えてはうまく行かないと個人的には考えている。そこへ至るプロセスは後から考えるとして、将来の理想的かつ持続可能な経済像を予見しうる与件を基にして組みたててしまった方が良い」との助言をいただいた経緯もあり、先行的に「定常状態」や「歴史段階的動態均衡」に関する概略の説明を簡単に行いたい。
■ 世界観的基盤を失っていった経済学者
ミクロベースであれマクロベースであれ、総体的な経済事象を説明する体系として研究されてきた経済学が、自然科学的な分析手法がより前面に出てくるようになり、研究分野も細分化されてテクニカルな学問になっていったのは、ポール・サムエルソン氏以降と思われる。
(サムエルソン氏は、経済学ゼネラリストであり、日本でも版が重ねられ広く読まれた『経済学』の著者)
彼自身、「理想的な観測条件の下で検証可能であり、有意味で、しかも反証可能な仮説」の定式化とその論理的な証明を中心的な課題とした。
このような転換により、特定の経済問題が精緻に分析されるようになり、データを利用した仮説の検証など、応用や実証という側面において経済学が大きく発展してきたことは間違いない。
しかし、この転換により経済学が失ったものは、得たものと同じくらい大きいと言える。
大枠の一般理論すなわち「近代経済システム」に通底する論理が研究テーマから外れて与件的なものとなり、サムエルソン氏が批判の対象としたマーシャル氏が考慮していた“私的利害と社会の利益の不調和”といった問題が研究対象の埒外に置かれるようになってしまったからである。
A・スミス氏の概念である“自然価格”も「定常状態」を示唆するものであるが、リカード氏は、論理的帰結として、利子率相当の利潤率まで利潤が下がる「定常状態」を明確に打ち出した。
“社会ダーウィン主義者”として今では好意的に見られていないマルサス氏も、生産的労働者と不生産的労働者という枠組みのなかでいくら投資が増えても、財の供給が増えるだけで需要が増加しないという視点から一般的供給過剰を唱えた。(マルサス氏が、弱者救済策の一つである救貧法に対して供給の拡大を伴わずに人口を増加させるものとして批判したことにはそれなりの意義があると思っている)
「土地国有化論」を打ち出した“奇妙な自由主義者”ワルラス氏は、現代経済学の基礎とも言われている一般均衡理論のなかで、均衡状態ではまったく利潤を受け取ることがないことを明らかにした。(ワルラス氏は当時の主流派社会主義者を批判した社会主義者とも言うことができ、「交換の理論」は自然科学で、「所有の理論」は道徳科学であると考えた)
A・マーシャルは、時空を超えて妥当性を持つ理論部分と時空限定的な妥当性を持つ学説の区別が必要ということで超長期的に「定常状態」に陥るという論理的帰結を放棄したが、論理的にそのような状態に陥ることを自覚していた。(数式を本格的に活用し始めたのはマーシャルだが、彼は、数学的に導き出された命題であっても日常言語に翻訳できないものであればその命題を捨て去ったという)
本格的に「定常状態」を考察した経済学者を上げるとしたら、J・A・シュンペーター氏ということになるだろう。
シュンペーター氏は、“均衡→新結合→均衡→新結合・・・”という動態的市場原理を提示し、「信用創造」を均衡から新結合に移行させるための機能として位置づけた。
「新結合」というのは、生産物および生産方法における物や力の結合の仕方を変更するもので、
1)新しい財の生産
2)新しい生産方法ないし商業的方法
3)新しい販路の開拓
4)原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得
5)新しい組織の実現(独占的地位の形成もしくは独占の打破)
によって実現される。
シュンペーター氏は、新結合で静態的均衡を打破してもやがては再び静態的均衡に陥り、価格と費用が一致するため利潤が消え、実質所得の増加のみが達成されるようになると提示した。そして、生産性上昇による物価下落が引き起こす不況を“新結合”を準備するものとして評価し、独占的競争市場も、独占利潤により再資本化資金が自己調達されることで新結合に導くと評価した。
シュンペーター氏には『資本主義・社会主義・民主主義』という著作もあるが、資本主義は、マルクスが言うような機能不全によって崩壊するのではなく、その正常な機能が十分に発揮されることによって、歴史的長期の果てに自ら別種の制度に昇華すると考えた。
「定常状態」もしくは「均衡論」をきわめて概略的に取り上げたが、このように、経済学の歴史に名を残す多くの経済学者が、論理的な帰結として「定常状態」(「均衡状態」)を提示したり自覚しているのである。
単なる論理的帰結なのか、超長期的な歴史過程で現実されるものとしてなのかは別として、先人たちが提起した「定常状態」やある意味で逃れられないと言える「均衡状態」が無視されたも同然の学問状況のなかで、「定常状態」が訪れようとしているのは皮肉である。(天災ではないので的外れの比喩になるが、「天災は忘れたことにやってくる」である)
統治者や経済学者の看板を掲げている人たちは、今こそ、リカードを、そして、シュンペーターを見直し、近代経済を貫いている基底的論理を再構築しなければならないのである。
■ 「定常状態」と認識しないために起きる経済的災厄
「定常状態」は、超歴史的であったり絶対的なものではなく、歴史段階的にかつ制度や経済価値観によって生成が異なるものである。
このことから、論理帰結的な意味での「定常状態」ではない段階であっても、通貨の資本化である供給(投資)や資本化を維持する需要(消費)に投じられない“余剰通貨”が増加することで「定常状態」に陥る。
私が言う「定常状態」はシュンペーター氏の動態的市場原理の説明に近いものだが、「定常状態」に陥る現実的要因として、第1段階は“余剰通貨”の非資本化状況の拡大を考え、第2段階は間国民経済(国際)的利益が得られなく状況を想定している。
第1段階の「定常状態」は、代替えではない新製品の不在や「労働価値」の上昇と、通貨的“富”の偏りというミクロ条件のなかで陥るものである。
(シュンペータ氏が“新結合”の要素として上げた5つの条件には、「定常状態」に陥ることを促進する要素と遅らせる要素が混在している。「1)新しい財の生産」と「3)新しい販路の開拓」は遅らせる作用として働き、「2)新しい生産方法ないし商業的方法」と「4)原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得」は促進するものである。「5)新しい組織の実現(独占的地位の形成もしくは独占の打破)」は内容次第で作用が異なる。また、この5つの条件に照らせば、現在がいかに新結合の条件を失っているかもわかるはずである)
第2段階は、第1段階の「定常状態」を解消するなかで自覚化される政策により、「近代経済システム」の唯一の利潤源泉である国際的利益が失われることでそこに至ると予測している。
第1段階は無自覚的に陥ってしまう「定常状態」であるが、第2段階の「定常状態」は、意識的に移行していくものである。
第1段階の「定常状態」にどう対応するかがきわめて重要な課題であり、それが遠い先の話ではなく間近に迫っていると予測する立場から緊急焦眉の課題だとも考えている。
「定常状態」は、これまでもチラチラと書いたように、“対応策を誤らなければ”、陰鬱なものでも、不活発なものでも、ましてや、経済的困窮を意味するものでもない。
“ただ単に”、市場論理で経済的資源を最適に活用しても国民経済レベルで利潤を得ることはできないという経済状況である。
利潤がなくとも、“合理的な政策を採れば”、「労働価値」を上昇させることも、それをどこまで追求するかは別として財的な豊かさも実現できる。
GDP的に言えば、名目GDPは通貨流通量によって規定されるが、実質GDPが「労働価値」の上昇によってのみ成長するという経済状況である。
通貨流通量や就業者数が一定で“余剰通貨”も存在しないとすれば、名目GDPは変動せず、実質GDPが物価下落率に応じて成長することになる。(“余剰通貨”が存在しないということは、すべての通貨が投資や消費を通じて資本化されている状態を意味する)
資本化されない“余剰通貨”が増加すれば、名目GDPは減少し、実質GDPは名目GDPと「労働価値」上昇率の関係で決まることになる。
第1段階の「定常状態」がなぜ経済的災厄をもたらすかと言えば、国民経済としては利潤が得られない状況になっているにも関わらず、個別経済主体は、なんとかして利潤を手に入れようとするからである。
(輸出を通じて国際的に得る利潤は災厄にはならないが、先進国がすべて「定常状態」に陥れば輸出が減少し、それを補うために、よりいっそう国内取引で利潤を得ようとするようになる)
見掛けだけでもなんとか利潤が得られる経済主体は、借り入れがなかったり少ないという健全な財務基盤を持ち、ブランド力や価格支配力でも勝った名だたる有力企業ということになる。
国民経済として利潤が得られないのだから、それらの経済主体が得る利潤の源泉は“通貨の移転”である。
有力経済主体に通貨を引き渡すその他の経済主体は、破綻するか、損失を累積させていくことになる。家計も、失業によって収入を減らしたり、勤務先経済主体の生き残り策により収入を減らすことになる。
このような事態の拡大的推移によって、有力経済主体が獲得した利潤も資本化されないまま余剰通貨となる割合が増えるため、国民経済は縮小再生産に陥ってしまう。
名目GDPがマイナスで、実質GDPもマイナスという縮小再生産に陥っている現在の日本経済は、「定常状態」未満に陥っていることを意味する。
多くの経済主体が、利潤を得るどころか、資本活動に投じた費用さえ回収できない状況に陥っているのだから、それらに貸し出しを行っている銀行が不良債権を増加させていくのは、経済事象としてまさに合理的なのである。
そして、さらに恐ろしいことに、米国経済の「バブル崩壊」により、日本の「デフレ不況」(「定常状態」未満)が先進国全体に蔓延していく事態が進行している。
それぞれの国民経済及びブロック経済が「デフレ不況」であることを認識すれば、それに対処するために保護貿易政策を採ることは必然であり、できるだけブロック経済の範囲を広げようとさえするだろう。まさに、戦前の悪夢が再現されることになる。
産業経済主体のみならず、金融経済主体もなんとか利潤を得ようとする。
現在の経済構造や価値観的制度では利潤が得られないという経済条件にありながら、見掛け(“通貨の移転”)だけの利潤をめぐって経済主体間及び国家間で壮絶な分捕り合戦が展開されることになるのである。
これがどれほど悲惨な経済状況を生み出すかについては、世界(先進国)全体が縮小再生産に陥るのだから、日本単独が「デフレ不況」という状況とは比較できないものであるとしかいいようがない。
経済苦境を輸出によってなんとかしのいできた日本経済も、輸出減少によりとんでもない経済状況へと突き進んでいく。
(アジア向け輸出比率が増加しているといっても、それは迂回的な先進国向け輸出である。そして、日本に較べれば、中国・韓国・台湾などのアジア諸国のほうがより大きな打撃を受けることになる)
国民向けプロパガンダとは言え「景気は回復基調である」といったノー天気なことを言ったり、郵政民営化や道路公団民営化などたわけた政策を論議しているヒマもなければ、財政破綻(国家破産)を心配している段階でもないのである。
死ななくてもいい国民を今後どれだけ死に追いやるか、経済的苦境でもがき続け意気消沈するる国民を今後どれだけ増やしてしまうのかという実に生々しい問題なのである。
くだらないことを論議して時間を浪費したり、「国債サイクル」の維持などというつまらないことに汲々とすることは、“対米開戦決定”に匹敵する自国破壊行為であると断罪する。
(蛇足だが、このサイトに集う“普通”の人々は、様々なことを自由闊達に節度を保ちながら書き込みを続けてかまわない)
日本を含む先進国の統治者と経済学者は総力をあげて、私の論理を否定するか、「定常状態」の理論を深めそれに対処するための政策を立案しなければならないと強く言いたい。
合理的な政策さえ採れば、「定常状態」は、多くの人にとって歓迎できるものであり、何ら恐れる必要はない。