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(回答先: Re: 太平洋戦争で彼我で殺された人の数を再考せよ 投稿者 ウッチャー 日時 2002 年 9 月 26 日 06:45:43)
愛国心について是非論が盛んだが、愛国心そのものは、その国に生まれ育ったものなら否応なく誰でも持っている自然な心情だと思う。国家を否定するアナーキストにも、自らをコスモポリタンと思っている人間にも、「俺は単なる野次馬に過ぎない」と斜に構えている人間にも、それはある。日常生活の中で、愛国的感情が具体的な行動として発現する機会が少ないので自分で気がつかないだけだ。早い話、【阿修羅】のボードで北朝鮮の拉致事件について語ったり、東電の偽報告書を糾弾したり、日本のマスメディアの体制迎合やコマーシャリズムを非難したりするのは、動機としてはいわゆる正義感もあり危機意識もあるだろうが、その底に愛国心も隠されていると見る。ただし問題は、過去の戦争のように、愛国心が国の野心的リーダーに利用されやすい、あるいは、時の施政者が外交政策(戦争も含む)を展開する上でとかく国民の愛国心を利用する誘惑に駆られる点であろう。
参考までに、愛国的感情の1例として【国際派日本人養成講座 NO.244】のワールドカップの話と篠沢秀夫教授の体験を挙げておこう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog244.html
愛国心といえば、直ちに国家間の戦争とか、歴史教科書とか右翼とかを連想したりして、国家主義、ナショナリズムと同一視する人がいるが、次元の違う問題である。前にも【阿修羅】のどこかで簡単に書いたが、ナショナリズムは民族や国家を優先させ、ファナティックで、個人を抑圧し勝ちな点で排斥すべきものである。両者の関係は、ナショナリズムは、本来無意識の領域に近い愛国心を過度に意識化し、平板化し、一種のイデオロギーに仕立て上げたものである。イデオロギーなるものの宿命は、それがどんなに緻密に構成されていようと、あくまで理性を土台としている以上は、たとえて言えば大きな魚網でメダカを掬うようなもので、生身の人間が持つ本能やら打算やら尊厳やら怨恨やら、真底にある複雑で微妙な心のマグマが抜け落ちてしまうところにある。したがってイデオロギーはいつか必ず破綻する。愛国心はアナログの世界、ナショナリズムはデジタルの世界と言ってもよい。
デジタルの音楽CDより、昔のアナログレコードを愛聴している。本物の音がする。温かくて、ハートフルだ。日本国が嫌いなので、もっぱらフランス近代音楽を聴いている。