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(回答先: ムスリムの好戦性? 投稿者 baka 日時 2002 年 9 月 22 日 13:09:48)
皆さんこんばんは・・
ムスリムが好戦的かという命題の立て方はいささか疑問あるんですがね。まそれは置いて、「剣とコーラン」というのはやはりキリスト教世界からの反イスラムスローガンではないかと思います。
西欧世界がキリスト教と世俗社会の階層社会が完成される以前には、ヘレニスムを継承していたのはアラブ世界でした。
レコンキスタ以前のイベリア半島を見れば理解できるように、イスラムに基ずく世俗と宗教が不即不離の社会はまことに安定したものでした。異教徒に対する寛容さは現代の眼から見ても学ぶべきところがあります。もちろんイスラム教徒以外が社会の中枢をしめることは出来ませんでしたが、たとえばユダヤ教徒も金融貿易に従事することになんの障碍もありませんでした。それどころか、改宗ユダヤ人でさえ政治的に重要な地位を占めることもあったようです。
やがて西欧社会が力を蓄え、イスラム世界と角逐を始めるところから現在にまで続く相克の幕があがったのではないでしょうか。おそらくこの頃に先のスローガンが持ち出されたのでしょう。大東亜戦争中の鬼畜米英の類ではないかと言えば、比喩がすぎると非難されるでしょうか。
ある民族がその民族の属性として好戦的であるかどうかは一概に論ずることはできないでしょう。
三千年の間迫害を受け続け忍従に甘んじていたユダヤの民が、約束の地を得た途端あれほどまでに倣岸強暴になるとは、イスラエル建国以前に誰も想像できませんでした。
我国でもそうではありませんか。死刑さえ執行されなかった平安時代の次に、武士が殺し合い相手の首を狩り自らは堵腹して果てることが美であるとした殺伐とした時代が続きました。やがて、徳川の太平の世が終わる頃幕末には狂気の様に人を殺すことが当然のような時期を経験し、その残り香が消えないうちに大東亜戦争で沢山の人々を殺し殺されるのが半ば当然のように考えられていました。現在曲がりなりにも平和を享受できているわけですが、もし外部からこれらの時代の一部を拡大して大和民族は極めて好戦的な血を有していると論評された場合どう受け取りますか。
イスラム教を信奉する人でさえも同じだと考える方が健康的じゃありませんか。
現在我々が理解している国家の概念はナポレオン以降の所産でしかありません。コルシカ生まれの男が一国の皇帝になり、西欧の各国を席捲して回ったその苦い記憶と、そのナポレオンを死刑にも出来ない程そのころの国家というものは脆弱なものだったと言う反省の果実です。いうなれば、実態としての共同体がナポレオンが提起した幻想的な共同体に敗れ去ったということです。
此れ以降西欧社会は、支配原理の正統性を貫徹させる国家概念の構築と、国家間のそれを調整するための所謂国際法の整備に力を注いできました。
その一方で上の思想を現実化するための経済手段としての資本主義を発達させました。
さて、イスラムの教義では唯一の神と個人が直接連繋されることが根本理解です。これが現実の共同体で貫徹されると、西欧社会が孜々として構築した支配の正統性などという思想と真っ向から対立します。つまり、アラブの世界観では近代的国家概念など許容する余地はないと言えます。
イスラム原理主義は飽くまでこの思考を貫徹し、西欧社会との対決姿勢をより一層鮮明にしてゆくだろうと思われます。
自衛権は西欧人が論理化しました、それを逆手に取られれば将に自縄自縛となるでしょう。論路的に行き詰まれば逆上する、というのが相場です。アメリカのいまの状況は私にはこのように映ります。
付記:シーア派の信奉するミトラ神話でゾロアスター教のマズダ神との対決の際聖剣とコーランを携えて勝利したことにが剣とコーランの由来かもしれません。
コーランの日本語訳を検索しましたが聖戦の語で書かれているのは驚くほど僅かです。
http://www.isuramu.net/kuruan/