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(回答先: はじめまして 投稿者 ユートピアコレクション 日時 2002 年 8 月 22 日 02:02:02)
ヤマギシズムと契約について。
”ヤマギシズムでは””ヤマギシズムとは”・・時折、とって付けたように使われるこのヤマギシズ
ムとはいったいなんだろうか?。恐らくこの”真のヤマギシズム”は定義されたことがないばかり
でなく、説明されたことすらないのではないだろうか。私はもう不思議とは思わないが、部外者で
あれば、随分不可思議に思うに違いない。場合のよってなら、”含蓄のありそうな”とか”神秘的
な”といった印象を持つ者も出てくるのではないかと察する次第。
ところで、特講を思想表現の場と考えるなら、ヤマギシズムは案外単純な発想を基にしている。
「一体研」で確認するものは、まず「すべては一体であるという正しい認識」だろう。この認識か
らすれば、たとえば「手が足に腹をたてたり」「目が鼻を所有したり」することは「間違い」とい
うことになる。こうした間違った認識を正すことによって争いを未然に防止することができ、快適
一色幸福社会が訪れるというわけだ。
無論、こうした世界観に契約は馴染まない。契約は基本的に当事者同士が行うものではない。
互いが共通の客観的基準に従うことを確認し合うことが契約だろう。とすれば、当然のように第三
者の存在を前提としなければ契約は成立しない。ところが”一体”はすでに完結した社会であるか
ら第三者の存在を許容しない。
では、間違いはどこにあったのだろうか?
「一体」は「一体不可分」と言いかえることもできる。首と胴体は分離できない。「共同体」は「運
命共同体」だろう。ところが70年代のヤマギシでは参画者の実に9割が辞めて出ていったのだとい
う。90年代の分裂を考えれば80年代の参画者の定着率も似たようなものだろう。これでは運命共同
体どころか普通の会社以上に定着率は悪い。同じような世界観やシステムを持ちながら、人の出入り
がほとんどない一灯園と比べればいかに異常かがよくわかる。ヤマギシがひた隠してにしたのは、実
はこの部分なのだ。もし、ヤマギシがこの異常な定着率を前提にして拡大、勧誘をしてるのだとした
らちょっとねえ。極端な話、散々うまいことを言って(たとえば幹部にしてやるといった)参画させ
て、今度はイジメて追い出す。金持ち勧誘してくればもうガッポ、ガッポだよね。いずれ出ていくこ
とを前提とすれば、全財産を供出したり、保険を解約したりする参画者は考えられない。
つまり、システムあるいは状況と一体の理念に整合性がないということが問題なのだ。
たとえば「六ヶ月自動解任制」がある。六ヶ月で職場が変わるということは、それぞれに交換可能な
人間であるということだろう。このことと「一体」はそもそも整合性を持つのだろうか? 手と足
は交換できない。自分の顔と他人の顔は交換できない(最近違うようだが)こうした非交換性、非
流動性を前提として初めて、各個人は共同体の一部として機能するのではないか。各人の生存の前
提であるからこそ運命共同体なのだろう。交換可能であれば生存の前提とはなり得ない。
では、土着的、固定的、閉鎖的な社会にこそ相応しいノスタルジックな「一体社会」に人的流動性を
持ちこむとどんなことが起こるのだろうか。”際限のない政治化”が恐らくその答え。共同体は滅私
な献身によって支えられる。互いに滅私であることが互いの生存の条件なのだ。流動化はこうした
前提を恐ろしく不確実なものにしてしまう。こうした社会では、他人に無我執を強いる力=権力を持
つことが唯一の安心に繋がる。誰が敵で誰が味方かは解らない。”真のヤマギシズム”はこうした政
治化を象徴する表現なのだろう。
契約主義ははるかに流動的な社会を前提にしているのだと思う。キリスト教は後発だが、契約神をい
ただくユダヤ人やイスラムは早くから商業の民として知られていたという。生まれてから死ぬまで、
恐らく同じ人達と暮らすであろう土着的な共同体に比べ、商業の出会いは一期一会だ。トラブルあれ
ば次はない。契約が常に理想的に守られるとも限らない。契約の不履行は報復によって担保されなけ
れば秩序はない。勿論、近代国家はこうした報復権を独占するわけだがこれも理想的に施行されると
は限らない。
どちらにせよ、平和的でもなくユートピアでもないが、職業選択の自由といった流動化を前提とする
かぎり、契約主義的な社会を目指す以外にない、というのが恐らく結論なのだろう。
「一体」は見果てぬ夢としてそっとしておくのが、一番いいのかも・・・